ネパール評論

ネパール研究会

「無としての死」の疑似体験

全身麻酔を,先日,初めて体験した。

生来,小柄・痩身ながらも健康で大病知らず,麻酔とは無縁であったが,昨年,喜寿を過ぎたころから,身体に故障が出始めた。耐用年数を超えたらしい。

先日も,胃腸の調子が悪くなった。やむなく病院に行くと,内視鏡検査が必要といわれ,麻酔をかけられてしまった。初の全身麻酔!

この全身麻酔は,不思議な体験であった。これまで麻酔は,夜,眠るようなものだと,なんとなく思っていた。睡眠であれば,眠くなり,時々は夢を見たりしながら寝入り,やがて目が覚める。このような睡眠であれば,「夢現(ゆめうつつ)」のときがあるからか,多かれ少なかれ覚えており,後から思い出すことができる。

ところが,先日の全身麻酔では,突然,何の予兆もなくスパッと意識が消え,「ハイッ,終わりましたよ!」という看護師さんの声で目が覚めた。その間のことは,まったく何一つ記憶にない。完全な無,「絶対無」なのだ!

これはいったい何だろう? 全くの「無」ーーもし目覚めなければ,永遠に,そのままだったはずだ。このようなもの,いや,この「無」こそが人の「死」ではないのか?

人の死については,生死の間にあるとされる「臨死体験」などを根拠として,身体は滅しても,魂は天に昇ったり輪廻転生したりして何らかの形で永続するのだから,決して人の「死」は「無」となることではないと,古来,多くの人々が信じてきた。

が,本当だろうか? 魂ではなく,身体の方であれば,死後,有機分解されて自然に帰り,再び,他の生物へと再生する。巡り巡って他の人の身体となるかもしれない。その意味では,身体は死によって「無」にはならない。これは明白。

これに対し,「私」という自己意識や魂の方は,残念ながら,「身体」の場合のような形では,残らないはずだ。

むろん,人の様々な行動の成果が,文化・文明の一部として,あるいは子孫として,死後も後世に残ることは確かである。しかしながら,それは,自分を自分として意識する当の「私」,自己意識としての「自我」そのものが,自分の死後も残ったり再生したりすることを,決して意味しはしない。

「私」,すなわち「私」という自己意識ないし魂そのものは,麻酔でスパッと意識が消えてしまったように,死により消滅し「無」となってしまう。人は,誰であれ,「1回限りの自己」を,宿命として,生きざるをえない。それは奇跡であり,だからこそ無限に尊いのだ。

先日の全身麻酔は,私にとって,死の疑似体験であった。もし本物の死であったならば,それについては,もはや永遠に何も語ることは出来なかったはずだ。死は,本人にとっては,何もなくなる「絶対無」だから・・・・

 ■「死」直視を迫る墓じまい(2023)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2024/02/24 @ 18:26

カテゴリー: 健康, 宗教, 文化

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