ネパール評論

ネパール研究会

伝統的性文化健在、キルティプール付近

1.伝統的性文化
ネパールは、いうまでもなく性の天国。かつては、カトマンズ盆地のどこに行っても、男根や女陰や男女合体像など、性が氾濫していた。歩けば男根につまづき、女陰にはまるといった有様。

民俗学的には様々な説明が可能だろうが、要するに、家族子孫の繁栄と、家畜や五穀の豊穣を願う、健康でマジメなものであったことはいうまでもない。

 ■チョバール山麓路傍の男根(リンガ)

2.原罪処罰としての性:キリスト教
ところが、性を原罪への処罰と信じ込まされている西洋キリスト教徒の多くは、そのような健康な見方をすることができない。淫らだとか、猥褻だとか、不道徳だとか、野蛮だとか――要するに、抑圧され歪になった、イジケた思い込みにとりつかれているのだ。

キリスト教は、何とも罪つくりな宗教である。というか、見方によれば、キリスト教は罪をつくることによって成立し、罪の脅しによって存立している宗教だといっても過言ではない(異端説ではあろうが)。

キリスト教にとって、性器はイチジクの葉で隠さなければならないほど恥ずかしい身体の一部だし、性行為は原罪への処罰だから、それらを彫刻や絵画で開けっぴろげに開陳し礼拝することなど想像もできないことだ。彼らにとって、それらは、せいぜい必要悪、したがって厳に隠されてあらねばなぬものなのである。

3.性抑圧西洋文化の影
この性抑圧西洋文化が、ネパールにも暗い影を落とし始めたように見える。かつていたるところにあった男根や女陰や男女合体像の中には、意図的か偶然かはわからないが、壊れたり、ゴミためとなってしまったりしているものも少なくない。

あるいは、旧王宮など、いたるところの寺にあったリアルな男女性器や男女合体像の彫刻は、多くが放置され、もはや原型が見分けられないほど劣化してしまっている。

あるいはまた、タメル入口の寺のように、最近修理されはしたものの、以前のようなリアルな性表現ではなく、肝心の部分がぼかされているものが多い。キリスト教的西洋道徳による直接的あるいは間接的な検閲ではないかと疑われる。

そもそも見たくない人は、来なければよいのだ。頼みもしないのに押しかけて来て、やれ未開で不道徳だの、淫らだのと勝手なことをいい、伝統文化を自分好みに改変してしまう。見たくなければ、動物供儀にも性礼拝の場にも来るべきではない。

4.村の健康な性文化
と、そんな嘆かわしい今日この頃だが、わがキルティプール付近の村は頑張っている。先日、キルティプールとチョバールの丘の谷間を流れる小川のほとりに行ったら、そこの小さな寺院を修理していた。修理費寄進者一覧らしきものが掲げられ、その横の部屋では男性たちが屋根支柱の彫刻、下の庭では女性たちがレンガ粉つくり(?)をしていた。村総出の修理であろう。

そうして修理された新しい屋根支柱を見上げると、実に見事、古き良き時代と全く同様の、リアルな男女性器や男女合体像が浮き彫りにされている。日本だと猥褻物陳列罪は間違いない。つまり、この近辺の人々は、テレビで西洋堕落番組を見ているはずなのに、文化の基底にある性文化は伝統をそのまま継承しているのだ。

5.余計なお世話は控えよ
まじめに、敬虔に男女性器や男女合体図像を造っている村人たちに、「そんな未開人のような淫らなことをしてはいけません」などと、知ったかぶりをしていうのは、敬虔な動物供儀を残酷だと非難するのと同様、お門違いの余計なお世話だ。抑圧され歪んでしまったヒガミ根性で、村人たちの健康な願いをぶち壊し不幸の道連れにしてはならない。

「悔い改めよ」――余計なお世話だ!

 
 ■寺院屋根修理/女性も修理参加

 
 ■寄進者表とその横の作業部屋/屋根支柱制作

 
 ■レンガ粉つくり(?)/新しい屋根支柱(道路側)

[補足]悔い改めるべきはセックス商売
インターネットには、科学偽装男女性器写真(ウィキペディアなど)や、祈りなき即物的性行為動画がいくらでもあるが、それらは似てまったく非なるもの。悔い改めるべきは、西洋発・日本発のそうした神をないがしろにするセックス商売である。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/29 @ 12:45