デジカメと「体験」形骸化
オーストリアに2週間ほど行ってきた。内陸型の猛暑。強烈な直射日光でクラクラし,ボゥーとしていて,2日目,カメラ置忘れ。仕方なく,超格安タブレット内臓カメラで撮ってみたものの,ピンボケばかり,事実上,カメラなしの旅行となった。
カメラなしとなって,これまでの旅行がいかにカメラ依存だったかが,実感としてよくわかった。現地の風景や出来事など,これは面白い,スゴイと感じたことを,自分の眼で見つめ記憶しようとする前に,カメラでパチリ。
しかも,いまはデジカメ。以前であれば,フィルムは高価であり,撮影にも現像にも相当の技術と手間がかかった。しかも,焼き付け写真は経年劣化,そう長持ちするものではない。ところが,いまのデジカメは,誰にでも,シャッターを押しさえすれば,きれいな写真が何枚でも簡単に撮影でき,いつまでも保存し,好きな時に再生できる。撮っておきさえすれば,現場の実体験をあとからいつでも追体験できる,という安心感(思い込み)――これは大きい。
しかし,その反面,デジカメ依存は,実体験の形骸化をもたらす。現場での出来事は,その場かぎりの瞬間・瞬間の出来事であり,だからこそ,その場でそれを最大限深く体験し心に刻むべきはずなのに,デジカメでパチリは,その基本的な心構え・身構えを不要と錯覚させてしまう。ここのことは写真に撮ったから,後で見ればよいや,と。
以上のことは,いまさらいうまでもない常識であろう。が,常識を忘れさせるのが依存の依存たるゆえん。その体験の常識を思い出す代償が,今回は,カメラ置忘れだったというわけ。お粗末。
▼猛暑・豪雨のなかのオーストリア国会議事堂(2016年7月)
■ピンボケ写真を画像ソフトで修正(過去は修正可能!)
谷川昌幸(C)
コメントを投稿するにはログインしてください。