ネパール評論

ネパール研究会

紹介:名和克郎「体制転換期ネパールにおける『包摂』の諸相」

これは,名和(編)『体制転換期ネパールにおける「包摂」の諸相』(三元社,2017年)の序章(p1-43)。ネパールにおける「包摂」の問題が簡潔に整理されている。以下,興味深く読んだ部分を中心に,紹介する。
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「包摂(サマーベーシーカラン)」は,英語inclusionの訳語として21世紀に入ってから普及した新語だが,2006年以降,「『包摂』概念と全く無縁でいることは,ほぼ不可能」となった(p4-5)。

「包摂」は,パンチャーヤット時代の「統合」とは決定的に異なり,「多様な人々を,その多様性を消し去ることなく,その一員とすることを含意」し,紛争後のネパールでは「表立って反対することの困難な,プラスの価値を帯びることとなった」(p14)。

一方,「包摂」は,「包摂される単位の明確な設定を要請する」。それは,包摂を要求する周縁的な諸集団から,それらに対抗しようとする伝統的上位身分の人々にまで及んでいる(p14-15)。

しかし,「注意すべきは,王制廃止後,国の統一的シンボルの欠如が指摘される状況にあっても,ネパールにおける『包摂』を要求する議論において,ネパールという枠組み自体が疑われることは極めて少ないということである。『包摂』は『包摂』される対象の存在を前提とするのであり,『過度の包摂への取り組みがネパールの統一性を損ない,国家を分裂させる』と主張するのは,ほぼ常に,自らを主流社会の側に位置づける人間である」((p18)。
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以上が,「序章」の中で特に興味深く思われた部分の私なりの要約である。この部分を読んだだけでも,「包摂」をめぐる問題状況が,よくわかる。

ただ,私としては,ここでは直接触れられていないが,「包摂」を実現する制度の問題が気になる。包摂する際,社会諸集団の「自治」を制度的にどこまで認めるか? 連邦制との関連でしばしば要求されているように,もし「自決権」や「分離権」まで認めるなら,そうした形での包摂への取り組みが「国家を分裂させる」恐れは十分にあるとみてよいのではないだろうか?

■NEFIN・HPより

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2017/04/16 @ 21:25

カテゴリー: ネパール, 民族

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