ネパール評論

ネパール研究会

ポストモダン資本主義とマオイスト:ジジェク「ポストモダンの共産主義」

暑気払いに,ジジェク「ポストモダンの共産主義」(筑摩新書2010年)を読んでみた。偉い人らしいが,暑中にはちょっと重く,よく分からない。以下,何となく分かったかな,という部分のみ。

本書の中のポストモダン資本主義に対する具体的な批判の部分は,よく分かる。

現在も進行中の金融危機は,人間の行動を決めるユートピア的発想がいかに抜きがたいものかを示している。アラン・バディウは簡潔にこう記した。

“一般市民は「理解」しないといけないのだろうか? 社会保障の不足を埋め合わせることはできないが,銀行があけた莫大な金額の損失の穴を埋めることは必須であると。厳粛に受け入れねばならないのか? 競争に追われ,何千人もの労働者を雇う工場を国有化できるなどと,もはや誰も想像だにしないのに,投機ですっからかんになった銀行を国有化するのは当然のことだと。”

この言説は一般化するべきだろう。われわれはエイズ,飢餓,水不足,地球温暖化などと闘っているとき,問題の緊急性は念頭にありながらも,しじゅう考えあぐねたり,結論を先送りしたりしてきたようである。

だが,こと金融崩壊に関しては緊急行動が絶対条件だった。大至急とてつもない金額を集めねばならない。・・・・パニックは必至だから,大惨事を防ぐために国境を越え,党派を超えた協調を即刻確立し,世界の指導者どうしの遺恨はひとまず忘れねばならなかった。・・・・

そして忘れてならないのは,莫大な金額がつぎ込まれた先は明らかに「現実の」または具体的な問題ではなかったことだ。市場の信頼を回復するため,つまり国民の考えを変えるためだったのだ! (137-138頁)

たしかに,このところ日常化した大企業救済や金融機関の金利操作・インサイダー取引などを見ると,市場の自律,自由,公平,効率などは真っ赤なウソで,市場や大企業こそが国家によって維持され保護されていることがよく分かる。自由市場は,労働者,農民,中小企業の保護を削減し,大企業,大金持ちの保護を強化していることが,ますます明白となった。

現在の世界的な経済危機は,大企業こそが国家保護を受けていることを白日の下にさらしたが,しかしジジェクによれば,これにより左派支持が回復すると考えるのは「無邪気な期待」であり「危険なほどに近視眼的だ」。

むしろ人種差別的なポピュリズムがわき上がり,さらなる戦争が勃発し,第三世界の最貧国の困窮が深まって,あらゆる社会で富裕層と貧困層の格差が大きくなるだろう。(36-37頁)

市場原理主義は,そもそも「ユートピア全体主義」であり,自由市場の失敗は,市場そのものではなく,その不徹底――国家介入がまだ多すぎた――にあると考える。

資本主義それ自体に非はない,実行の過程で歪曲されたものが破綻しただけだ・・・・。(39頁)

市場原理主義は,市場の失敗を、市場の失敗として認めない。それは,破滅まで突き進まざるをえない。それが歴史の客観的傾向である。

現代の市場原理主義,あるいはポストモダン資本主義は,本来,私有化してはいけない三つのコモンズを私有化してしまう。
  (1)文化のコモンズ:生活のデジタル支配
  (2)外的自然のコモンズ:環境破壊
  (3)内的自然のコモンズ:遺伝子操作
人間は,これらのコモンズを奪われ,ついには,いわばアガンベンのいう「ホモ・サケル(剥き出しの生)」とされてしまう。(154-157頁)

このポストモダン資本主義の客観的傾向,人間のホモ・サケルへの転落を止められるのは,もはや「純粋な主意主義」あるいは「歴史的必然に対抗する自由意思」(254頁)だけである。

“状況にまったく希望がもてないからこそ,労働者と農民の努力を10倍にまで高めて,西ヨーロッパ諸国とは異なるやりかたで文明の基本的必要条件を創造するチャンスが与えられるのではないか。(レーニン)”(254頁)

たとえば,ボリビアのモラレス政権,ハイチのアリスティド政権,そしてネパール・マオイスト

彼らは,反乱ではなく「公正な」民主的選挙によって権力の座についたのだが,ひとたび実権を握ると(少なくとも一部には)「非国家」的にその力をふるった。党・国家の代表ネットワークを飛ばして草の根の支持者たちを直接に動員したのだ。

彼らの状況は「客観的」に見て,望みがない。歴史の大きな流れに逆行していて「客観的傾向」には頼れない。せいぜい急場をしのぐしか,絶望的な状況でもできることをするしかないのだ。にもかかわらず,このことが彼らに特異な自由を与えてはいないだろうか。

・・・・これらの国の(歴史の法則や客観的傾向)からの自由が,創造的実験のための自由を支えているのではないか。彼らは政治活動において,支持者たちの集団意思だけに依拠できるのである。 (254-255頁)

彼らは,いかなる困難にも立ち向かう覚悟を固めている。二十世紀のコミュニズムに幻滅して「そもそもの始まりからはじめ」,新しい土台の上にコミュニズムを再構築しようとしている。敵からは、危険なユートピア主義者とけなされながらも,いまなお世界の大半をおおっているユートピア的な夢から実際に目覚めたのは彼らだけだ。二十世紀のへのノスタルジーではなく,彼らこそわれわれの唯一の希望である。(257頁)

歴史の法則や客観的傾向は,いまや人民の味方ではない。ジジェクによれば,破滅を免れない市場原理主義からの救いは,本来のコミュニズム(共産主義)しかない。

恐れるな,さあ,戻っておいで! 反コミュニストごっこは,もうおしまいだ。そのことは不問に付そう。もう一度,本気でコミュニズムに取り組むべきときだ!(258頁)

たしかに共産主義はプラトン以来の伝統ある思想であり,現存した社会主義が失敗したからといって,思想そのものが破綻したわけではない。

ここで特に興味深いのは,ジジェクが,ネパール・マオイスト――少なくともそのある部分――を,本気でコミュニズムに取り組んだモデルの一つとしていることである。これまで,このような観点からのマオイスト分析はなかった。見落としか,それとも過大評価だろうか? 

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/07/19 @ 20:21