違憲選挙と「法の番人」としての最高裁
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棄権は危険だが,現状では投票よりはましだと考え,昨日は投票所で選挙区・比例区とも投票拒否を宣言し,最高裁国民審査にだけ参加した。
むろん国民審査も,無印を信認と見なす,姑息な投票方法を採用している。それは,無知な国民には難しい裁判のことなど判りはしないから,無印を信認と考えてやるのが国民のためだとする,鼻持ちならぬ法曹エリート主義によるものだ。
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法は,他の文化圏と同様,日本でも,権威が創り下々に下賜されるものであった。最高の権威はいうまでもなく神だから,法は神が創り人間に啓示されたものである。
しかし,神は人間の理性を超越した絶対者,あるいは悠久の歴史とともに在る者だから,神意としての法を下々の庶民が直接読み,解釈し,適用することは不可能である。そこで,神法を職業として学び,解釈し,庶民に伝える特権的身分が生まれた。それが,法曹である。だから司法は,伝統的に,良くいえば温情主義的・父権主義的であり,実際には度しがたい愚民観に立っているといわざるをえない。
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最高裁国民審査も,こうした父権主義ないし愚民観に立つものではあるが,それでも昨今の政治状況を見ると,残念ながら,われわれは「×」印または無印投票によりこの国民審査には参加し,もって司法への期待を表明し,その助力を仰がざるをえない事態に立ち至っていると考えざるをえない。
われわれは,自分自身のために,自らへりくだり,司法を立てる。法曹を神意の解釈者だとおだて,エリート意識をくすぐり,「法の番人」としての聖職・天職(Beruf, profession)を思い出してもらうのだ。
裁判官は,時の政府にも,ときどきの「民意」にも服従するものではない。神聖な「法」にのみ耳を傾け,「法」を客観的に解釈し,時の政府や「人民」に法の真意=神意を示す。それが法曹中の法曹たる裁判官の使命だ。
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日本国憲法も,こうした観点から,裁判官の独立を宣言している。「すべて裁判官は,その良心に従ひ独立してその職務を行ひ,この憲法及び法律にのみ拘束される」(第76条3)。
ここでいう「良心」や「独立」が,神の前のものであることはいうまでもない。人は,神にのみ従うとき,はじめて他人への依存から脱却し,自由・独立たりうる。裁判官は,首相や大臣にも国民にも服従しない。「国民の声」も「天の声」ではない。「天の声」は,個々の裁判官がそれぞれ神と直面し無心に(良心をもって)耳を傾けるときにのみ,聴き取れるものなのだ。
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いまの日本は,神頼みと誹られようと,裁判所なかんずく最高裁判所に期待せざるをえない事態に立ち至っている。われわれは,裁判官が日本国憲法を通して語りかける神の声を聴き取り,国民に伝えてくれることを願っている。たとえば,違憲状態での選挙は無効であると,おそらく神は語られるのではないか? 特権的「聖職者」たる裁判官には,その神の声を聴き取り,われわれに伝えてほしいのだ。
むろん,こうした司法への期待は,世俗民主主義にとっては不幸なことだ。民主主義が正常に機能していないからこそ,われわれは非民主的機関たる司法に依存せざるをえないのだ。民主主義の時代においてもなお,司法に大きな特権が与えられているのは,このような非常事態に対処するためだ。いまこそ司法は,その本来の崇高な任務を果たすべきである。
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ところで,こうした司法への期待という点では,いまの日本は,ネパールとよく似ている。ネパールでは,民主的暫定憲法はつくられているものの,憲法通りの政治が行われておらず,多くの重要問題が最高裁に持ち込まれ,審理され,次々と裁決が下されている。門前払いや,統治行為論による逃げはない。
たとえば,「公益訴訟(public interest litigation)」も広く受理されているし,最近では2012年5月,議会任期延長を違憲と裁決し,議会を解散させてしまった。非民主的な最高裁がこれほど政治に深く関与することは決して「民主的」ではないが,たとえ非民主的であろうと,憲法が定めている以上,最高裁はその憲法にのみ従い,粛々と裁決を下さざるをえないのである。その意味では,ネパールの最高裁は,不幸なこととはいえ,良く機能しているといってもよいであろう。
日本の最高裁は,いまこそネパール最高裁のこの勇気を学ぶべきである。憲法上の位置づけは異なるが,いずれの最高裁も法を通して語りかける神の声を聴くことを天職としていることに変わりはない。「違憲状態」の選挙は違憲であり無効であるというのが神の声なら,民の声も政府の声も無視し,神の声にのみ従うべきである。
それが特権的法貴族たる裁判官の義務である。予言者は荒野に叫ぶもの,世に受け容れられないことを恐れてはならないだろう。
谷川昌幸(C)
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