ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

動物供犠停止か? ガディマイ祭

ネパール各紙やロイターなどの報道によれば,ガディマイ祭動物供犠が停止されるらしい。ガディマイ寺院運営基金は公式に停止とは発表していないらしいが,動物愛護団体の圧力に屈し,事実上の停止に追い込まれたようだ。

記事では,インドやネパール国内の反対にも言及されているが,国際的な反対運動の中心は実際には欧米の「動物の人権と福祉」擁護諸団体である。実にケシカラン。許せない。ネパールの動物供犠派は,もっと怒るべきだ。(以下,これまで幾度か述べてきたことで繰り返しになるが,腹の虫がおさまらないので,繰り返す。)

世界最大の動物供犠を伴うガディマイ祭には,差別,衛生,ネ印国境管理,商業化(見世物化)など,様々な問題があることは事実であり,改善は必要であった。これはガディマイ祭実行委員会もネパール政府も認めていた。が,そのことと,動物供犠そのものの是非とは本質的には別の問題だ。

欧米「動物の人権福祉」擁護諸団体も信奉するはずの多文化主義からすれば,動物を一切殺さない文化もあれば,近代的屠殺工場で苦痛のない「人道的」な方法で動物を衛生的に処理し,その肉を食する文化もありうる。ならば,動物の生命を畏敬するが故に,神に動物をささげ,神の祝福をえたうえで,その肉を食し,皮や骨を最大限利用しつくすという文化もあってしかるべきだ。

そもそも,自らの手で水牛や山羊や鶏の首を切り,生き血をあびつつ,動物たちの生命により生かされていることを神に感謝することの,いったいどこが残酷なのか!

これに反し,現代社会では,動物たちは大量管理飼育され,消費者の目に触れることなく出荷計画通り整然と近代的屠殺工場に運び込まれ,機械的・衛生的に処理され,肉塊とされ,そして美しくパック詰めされ,商品として百貨店やスーパーに並べられる。その肉を,現代の消費者は買って食べる。が,これでは肉を食べても,他の動物の命を食べているという実感は持ちにくく,したがって罪悪感を感じることもなく,自分を生かしてくれている動物への心からの感謝の念が生じることもない。動物の尊厳を踏みにじり,動物をモノ扱い,商品扱いしているのは,いったい誰なのだ。

むろん,これはいわれなき非難攻撃を受けるから,こう反撃せざるをえないのであって,もし「動物の人権福祉」擁護諸団体が彼らだけでその生き方を選び実践しているのであれば,彼らのその生き方に動物供犠派が外からイチャモンをつけるようなことはない。多文化主義であれば,当然,そうあるべきだ。

ところが,「動物の人権福祉」擁護諸団体は,自分たちだけで満足できず,自分たちの生き方,自分たちの文化を絶対視し,それを他文化に宣教し,押し付けようとする。余計なおせっかい,バカなことはするな!

ネパールの動物供犠派の人々には,欧米文化帝国主義者どもの偽善的文化侵略を断固撃退し,神聖な動物供犠を守り抜いていただきたい。なによりも動物の尊厳を守るために!

▼旧王宮寺院前でも動物供犠が行われてきた。今年はどうなるか?(7月29日撮影)
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【参照】動物供犠 ガディマイ

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/07/30 @ 12:58

カテゴリー: 宗教, 文化, 旅行

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