ネパール評論

ネパール研究会

近代化とリキシャの悲哀

リキシャが庶民の足として復活しつつある。インフレ,燃料高騰による料金値上げと,渋滞慢性化で,リキシャに客が戻ってきたのだ。

それは喜ばしいことだが,近代化によって奪われてしまった「時間」は,リキシャにももはや取り戻せない。かつてネパールには「豊かな時間」があふれていた。「時」はゆったりと流れ,その意味では人々は豊かであり,幸せであった(もちろん,別の不幸,苦しみがあったことはいうまでもないので,ここではいわない)。

たとえば,以前であれば,リキシャといえば,このような風景の中にあるのが普通であった。時間は無限にあり,人々は豊かな「無為の時」を楽しんでいた。
 Jyata,2011-9-7

ところが,近代化は,その「時間」を奪ってしまった。近代化のスローガンは「時は金なり」であり,そして「法の支配」。人々は,非人間的・機械的な規則(法)に従い,「時間」を「金」に変えなければならない。これが「近代の精神」であり,「資本主義の教え」なのだ。

この写真を見よ。欧米の近視眼的近代化=現代化論者どもが強制した近代的合理的規則に従い,リキシャが整然と一列に並んでいる。そして,車夫はみな,早く客が来ないかと,いらいら苛立ち,客待ちをしている。同じ客待ちでも,上掲の伝統的客待ちと,その精神において,これは全く異なる。「時は金なり」を内面化した近代的リキシャには,もはやあの無限の「豊かな時間」は失われてしまっているのだ。
Thamel, 2011-9-7

しかも,米帝・印大国主義のお節介により無節操な自由市場化が進み,タクシーは激増,リキシャも含め,過当競争となっている。

このリキシャ,タクシーの客待ちの列を見ると,わが長崎のタクシー業界の悲哀を思わずにはいられない。新自由主義的規制緩和のおかげでタクシーが増え,夜になると連日,客待ちタクシーの列が数キロにも伸びる。120円プロレタリア路面電車から,道路沿いに並ぶ客待ちタクシーの長蛇の列を見るたびに,タクシー業界の苦しさを思い,また繁華街でタクシーを拾うことを躊躇せざるを得ない。長時間客待ちしてきたタクシーかもしれないのだから。

同じ客待ちでも,伝統的リキシャと近代的リキシャでは,その精神は全く異なる。無限の時間の中のリキシャと,時を金に換えようと焦燥するリキシャ。共通するのは,金がないことだけ。とすれば,リキシャにとって,そして他の労働者・農民にとっても,「時は金なり」はペテンだ。近現代化は,「時」だけ奪って「金」はもたらさなかったから。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/10/05 @ 11:25

カテゴリー: 社会, 経済, 文化

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