ネパール評論

ネパール研究会

売春カーストと性産業セックスワーカー

谷川昌幸(C)

1.売春カースト
8月下旬,売春職業カースト,Badiが他のダリット団体と共同で,国会周辺で生活改善要求運動を続け,逮捕者,負傷者が多数出ている。

2.バディの裸デモ
The Himalayan Times社説によれば,バディ・カーストは次のような現状にある。

いま国会デモをしているのは,西タライのバディ。国会周辺で「半裸デモ」を行い,もし要求が通らなければ「全裸デモ」をすると予告している。

主な要求は,売春をやめるための耕地の分配と子供の無償教育。売春職業のため,父不明の子供がたくさんいる。

法律は,売春を合法とも違法とも決めていない。ネパールでは,売春職業カーストが罪の報いとして古くから代々継承されてきた。社説は,法律で明確な規制を定め,女性搾取を禁止した上で,自由売春を認めるのが現実的という結論のようだ。

3.恥ずかしいのは社会
売春を家業とせざるをえないというのはいまの人権基準では明らかに正義に反する。生活に必要な「耕地を分配せよ」,「子供に無償教育を受けさせよ」というバディの要求は謙虚なものであり,文句なしに正しい。

「半裸デモ」はすでに新聞が報道した。人々の不幸をメシのタネにするのはケシカランが,しかし半裸バディ写真を掲載することで,彼女らの現状が世界中に知られた。マスコミは因果な商売だが,これは業,頑張って欲しい。

バディは次は「全裸デモ」をするという。服を脱いで全裸で100人,1000人がデモすれば,もはや誰もとめられない。これも,ぜひ一面トップで掲載し,世界中にネパール文化の深遠を知らしめて欲しい。

恥ずかしいのは,売春家業でも半裸デモでもない。それはネパール社会が彼女らに強制してきたことだ。ありのままを人々に見せる。恥ずかしいのは,見ている社会の側だ。世界への恥さらしと見るなら,即刻バディの謙虚な要求を受け入れ,全裸デモをやめてもらうべきだ。

4.マオイストのリキシャ攻撃,大使猟官運動
マオイストは何をしているのか? 人権団体はいくつか連帯を表明しているが,腰が引けている。マオイストはよく分からない。こんなときこそ,バディを全面支援し,解放を勝ち取るべきだ。

それなのに,マオイストは先日のバンダで,何とリキシャ(人力車)を攻撃して回った。リキシャの運ぶ人や物などたかがしれている。かつてのバンダでは,リキシャだけは例外で,「人民のためのバンダ」をアピールした。そんなことも出来ないマオイスト。リキシャなど攻撃せず,一泊数万円もする某高級ホテルでも攻撃してみよ。

その一方,マオイストは,一番おいしい官職である大使に4候補を出した。デンマーク,オーストラリア,フランス,マレーシアだという(8月28日4大使閣議決定)。リキシャ攻撃と大使猟官運動。それらと,バディの「全裸デモ」のどちらが恥ずかしいことなのか?

5.バディとセックスワーカー
バディ問題が難しいのは,文明社会でもセックスは「産業」として成立しているからだ。「売春職業カースト」と「性産業セックスワーカー」は,どこが違うのか? 日本でも欧米でも,性産業は認められており,売春そのものを堂々と公認している先進国もある。

あるいは,「バディの半裸や全裸」と,先進諸国の半裸夏ファッションやネット性無法状態は,どこがどう違うのか? 29日午後,ネパール文部省正門前で,ヘソだし半裸ファッションの日本女性を見た。ビーチと勘違いしているらしい。ギョッとし,猥褻罪で逮捕されないかと心配になった。

ネパールでも,伝統的性交像満載のヒンズー寺院の周辺には,近代的性産業が続々進出してきている。数日前,寺院の向かいの飲食店に迷い込んだら,これはイカン,性的退廃ムード瀰漫。イカン,ケシカランが,道の反対側のヒンズー教寺院と,このケシカラン飲食店,あるいは全裸で踊らせているあまたの酒場(先週ヌードダンサー80人が逮捕された)と,どこがどう違うか?

裸や性を見せている点では,両者は何ら変わらない。違いは,宗教性の有無,あるいは経済外的強制の有無だけだ。現代性産業は,世俗化され,民主化され,共和制化されている。そこが違う。

バディなど前近代的売春職業は,宗教や親など他者により売春を強制された。これに対し,近代民主主義社会では,本人の自由意思で,売春する。自由・独立の個人が,自分の自由意思により,新しい服が欲しいといった理由により,自分の財産(property)である身体の一部である性器を貸し,使用料を取る。資本主義の原理からいって,自分固有の財産(性器)をどう使用しようが,他人の同等の自由を侵害しない限り,それは自己責任であり,何ら問題はない。だから,ヒマラヤンタイムズも,世俗的民主的共和制的な法律により規制した上で,自由意思による売春を認めるという現実的な提案をしたわけだ。(性器の使用契約とは卑猥な表現だが,くそまじめな哲学者カント大先生の表現を拝借しただけ。抗議はカント先生にしてください。)

6.拝金教による強制
しかし,その近現代セックス・ワーカーの自由意思は,本当に自分の意志か? もし資本主義文化により巧妙に創り出されたものなら,売春強制者がヒンズー教などの宗教から資本主義(拝金教)に替わったにすぎない。

先進文明国の教養ある人々は,バディ売春職業カーストを野蛮な未開国の因習と見下すが,見方によれば,自己責任で性産業に従事させられている先進国のセックス・ワーカーの方がはるかに悲惨な状況にある。バディの売春は強制されたもので,性器を貸すだけだが,先進国の性産業セックス・ワーカーは自分の自由意思で性を売り金品を得ている(と社会から見られている)からだ。バディにはまだ魂の救いがあるが,先進諸国のセックス・ワーカーには救いはない。性を売ったことの責任を全部引き受けて死んで行かねばならない。

いまのネパールは,過渡期だ。売春職業カーストが残っている一方で,資本主義型性産業が急成長している。バディはカースト差別でケシカランが,では,民主化され万人に開かれた近代的性産業はどうなのか?

7.民主主義の偽善は許されない
カースト規制から解放されたバディが,餓死の自由を得,自らの自由意思で資本主義的性産業にセックス・ワーカーとして就職するといった民主主義の偽善は,絶対に許されてはならないだろう。

* ネパールの性問題の現状については、アイウエオサークル 「セックス産業花盛り」(8月28日)http://aiueo.blog.ocn.ne.jp/nepal/2007/08/post_3887.html

* The Himalayan Times, 28 Aug. 2007.

写真(上):文部省玄関。国民道徳総本山への入り口。
写真(中上):筋向かいのヒンズー教寺院と敷地内の銀行。宗教と資本主義先兵の結託(この寺は観光収入目的で建設されたというウワサもある)。
写真(中中):ヒンズー教寺院の性交像。この種のものが無数にある。
写真(中下):同上
写真(下):寺院反対側(文部省の並び)の繁華街。近代性産業もこうした繁華街内に増殖中という。  

Written by Tanigawa

2007/09/01 @ 14:54