ネパール評論

ネパール研究会

絞首刑を煽るインド民主主義:A.ロイ(5)

5.国会襲撃事件の13の謎
2001年の国会襲撃は不可解な事件であり,多くの謎が未解決のままだ。ロイは『12月13日選集』(2006年)への「序文」(Roy:ⅲ)において,13の謎を指摘している。いずれも,事件の核心に関わるものだ。

Q1. 12月13日の襲撃の何ヶ月も前から,政府と警察は議会襲撃の恐れを指摘していた。前日の12日,バジパイ首相は,近く議会が襲撃されると警告さえした。もし情報機関から情報があったのなら,翌13日に襲撃車両が易々と議会エリアに進入できたのは,なぜか?

Q2. 襲撃後数日のうちに,デリー警察特捜部が,襲撃はジェイシェ・ムハンマドとラシュカレ・タイバの周到な共同作戦であり,IC814ハイジャック(1999)犯人の「ムハンマド」が襲撃を指揮した,と発表した。ところが,これは法廷では立証されなかった。特捜部は何を根拠に,この発表をしたのか?

Q3. 襲撃の一部始終をCCTVが録画しており,そこには6人の犯人が映っていたとされるが,射殺されたのは5人だけ。残りの1人はどうなったのか? また,このビデオ映像が証拠としての法廷開示も,議会での再生も,一般への放映もされなかったのは,なぜか?

Q4. 以上のような疑問が出されているのに,議会を休会にしてしまったのは,なぜか?

Q5. 襲撃の数日後,政府はパキスタン関与の「疑う余地のない証拠」があると発表し,印パ国境に数十万の軍隊を動員,核戦争にさえなりかねない危機を招いた。拷問により引き出したアフザルの「自供」(最高裁は証拠採用留保)以外に,「疑う余地のない証拠」はあるのか?

Q6. パキスタン国境への軍隊動員は襲撃のはるか以前から始められていた,というのは本当か?

Q7. この危機対処のための軍事費は,どれくらいか? また,この作戦による死者数や土地・家屋等の被害は,どれくらいか?

Q8. 警察は,どの情報に基づきアフザルを犯人とし,逮捕したのか? ジーラーニ自供によるというが,カシミール警察によるアフザル捜査開始はその自供以前。

Q9. アフザルは投降ミリタントで,治安機関(カシミール警察STFなど)の常時監視下にあった。そのアフザンが,どうして襲撃に関与できたのか?

Q10. ラシュカレ・タイバやジェイシェ・ムハンマドのような組織が,治安機関常時監視下のアフザルのような人物を信用し,作戦実行のための重要な役割を任せるだろうか?

Q11. アフザル証言によれば,警察特任隊(STF)の下で働いていた”Tariq”という人物に紹介され,「ムハンマド」をデリーに連れて行った。警察調書にもある,この「タリク」とは,いったい何者なのか?

Q12. 2001年12月19日,警察は,襲撃犯の一人はラシュカレ・タイバのMohammed Yasin Fateh Mohammed(Abu Hamza)である,と発表した。しかし,ヤシンは2000年11月に逮捕され,カシミール警察拘置所に拘置されていた。そのヤシンが,どうして襲撃に参加できたのか? もしそれがヤシンでなければ,ヤシンはいまどこにいるのか?

Q13. 議会を襲撃した5人の「テロリスト」は,いったい誰なのか?

――ロイの指摘する「13日襲撃事件」の13の疑問を見ると,この事件がアフザル絞首刑で幕引きされてよいものではないことは明白だ。アフザルは,ケネディ暗殺事件の「オズワルド」,あるいはネパール王族殺害事件の「ディペンドラ皇太子」のような存在といってもよいであろう。闇は深い。 

130307
■混沌のデリー市街(2010/3/20,本文とは無関係)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/03/07 @ 14:11