ネパール評論

ネパール研究会

書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(5)

谷川昌幸(C)
4.普遍語・国語・現地語
本書における議論のキータームは,言語の三類型としての「普遍語」「国語」「現地語」である。また,これらを使う人々については,自分の話し言葉以外の言語を読める人を「二重言語者」,二言語を自在に話せる人を「バイリンガル」と呼び,明確に区別される。
 
(1)言語の三類型
まず,言語の三類型については,それら3種の言語は上下の三層構造をなすものとして説明される。学問的真理を基準とするなら,普遍語が最上位にあり,現地語が最下位に来る。ところが,生活の「現実」を基準とすれば,現地語がそれに最も近く,普遍語は遠いということになる。図解すれば:   
 
   普遍語 ― 国語 ― 現地語
 
この言語三類型の説明を見たとき,私はすぐ丸山眞男の「思想史の考え方について」(1961年,著作集9)を思い浮かべた。丸山は,思想を次の三類型に分類した。   
 
   教義 ― 観念 ― 時代精神
 
教義は,高度に自覚的で抽象度の高い体系や学説。観念は,「進歩」や「いき」など,教義ほども自覚的でも体系的でもないもの。時代精神は,理性的反省以前の生活感情さらには意識下にあるもの。丸山は,これら3レベルの思想の関係について,次のように説明している。
 
このさまざまのレヴェルでの思想の相互の連関を考えるについては、まずこれを全部包括した、多義的なものとしての「思想」を出発点として想定します。そうしますと、およそ思想というものにオリエンテーションを与える、つまり目標や方向性を与えるのは、相対的にこの成層において上のレヴェルにあるものです。つまり目的意識性、目的設定による方向性というものは、上から下に向かって行く。それに反して思想を推進していくようなエネルギーというものは、逆にこの層の下の方から発して上へと上昇していくこういうことが言えるのではないでしょうか。そこでカントの有名な言葉をもじっていうならば、たとえば生活感情とか実感とか、そういうものによって裏づけられないところの理論なり学説なり教義なりは「空虚」であり、逆に理論、学説、教義あるいは世界観というものによって方向づけられない実感は「盲目」である、つまりエネルギーはあるけれどもどこにいくか、どういう機能を果たすかわからない。こういうことがいえるのではないか。一般的に目的設定もしくは方向性の設定は上から下に、エネルギーは下から上にいく、ということになりましょう。(著作集,p65-66)
 
さすが丸山,あざやかな分析である。学問(科学)と実感のいずれかなどという,不毛な議論ではなく,両者はいわば弁証法的関係にある。 水村氏の言語の三類型は,結局,丸山が言おうとしたことと,おなじことであろう。彼女は,ここではおそらく丸山のこの論文は見ていない。もし彼女がこの論文を読み,下敷きにしていたら,この部分の議論はもっと明確なインパクトがあるものになっていたであろう。
 
(2)二重言語者とバイリンガル
次に,「二重言語者」と「バイリンガル」については,著者は,話すことよりも読むことを重視し,もっぱら「二重言語者」について議論している。「普遍言語」を母語としない人々にとって重要なのは,「普遍言語」をペラペラ話せるようになることではなく,それを読めるようになることだからである。(後述のように,この観点から軽薄英会話教育が完膚無きまでに批判されることになる。)
 
――以上のことをふまえて,以下,「普遍語」と「現地語」についてみていく。「国語」はそれら両者との関係の中で議論されるので,節を改め議論することにする。
 
(3)普遍語(universal language)
普遍語とは,原理的に世界に開かれた世界言語であり,たとえばラテン語,ギリシャ語,アラビア語,サンスクリット,漢語などである。
 
①聖なる言語: もともと普遍語はキリスト教,イスラム教,ヒンドゥー教,仏教,儒教などの聖典を書き記した「聖なる言語」(B・アンダーソン)であった。
 
②書き言葉,読まれるべき言葉: この「聖なる言葉」は「書き言葉」であり,「読まれるべき言葉」であった。つまり,それらは様々な現地語を使う人々が共通して読み書きする普遍言語であり,二重言語者の使う言語だったのである。
 
③世界に開かれた言葉: 普遍言語は,現地語や母語がなんであれ,共通して読まれるべき言語であり,したがって「世界に向かって開かれた言葉」である。その純粋型は,誰の母語(現地語)でもない数学言語。これは万人に開かれている。
 
④学問の言葉: 普遍語は,書き言葉であり,記録として残り,したがって写され,修正され,追加され,広まっていく。それは,人類の叡智の蓄積である。だから,「叡智を求める人」は,普遍語を読み普遍語で書こうとする。普遍語は「学問=scienceの言葉」である。
 
学問で〈普遍語〉を使うのは、便宜上のためや、慣習や法に従うためではない。学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いたことが〈真理〉であるかどうか、〈読まれるべき言葉〉であるかどうかを問うことによって、人類の叡智を蓄積するものだからである。くり返すが、学問とは〈読まれるべき言葉〉の連鎖にほかならず、その本質において、〈普遍語〉でなされてあたりまえなのである。(p129)
 
(4)現地語(local language)
現地語とは,多くの場合,母語であり,人々が巷で使う「口語俗語」である。
 
〈普遍語〉は、上位のレベルにあり、美的にだけでなく、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す重荷を負わされる。それに対して、〈現地語〉は下位のレベルにあり、もし〈書き言葉〉があったとしても、それは、基本的には、「女子供」と無教養な男のためのものでしかない。(p132)
 
しかし,その反面,母語は自然に体得するものであって,言語の恣意性を意識しなくても済む。母語は生まれながらに話していたように感じられる。「お母さん」という言葉とそれが指し示す対象としての「母親」との間には,自然な必然的関係があるように思われる。それが現地語の特権である。
 
これは,いわば生活実感としての言語といってもよいであろうが,この部分の著者の説明は必ずしも十分とはいえない。現地語は「女子供と無教養な男のためのもの」(p132)などと偽悪的な表現をしているが,説明不足のため真に受けて,水村氏は現地語蔑視だ,女性差別だ,インテリ・エリート主義だ,などと憤慨する人が出てくるにちがいない。
 
むろん著者は現地語蔑視などしてはいない。おそらく著者は,人為的な(意識的に学習する)普遍語と,自然な(と感じられる)母語ないし現地語を対比し,前者はその人為性のゆえに翻訳可能だが,後者はその自然性・直接性のゆえに翻訳不可能だ,ということがいいたいのだろう。経験の直接性や固有性,あるいは生活「実感」は,自然な(と感じられている)母語ないし現地語でしか語れない。それが現地語の特権だということであろう。
 
著者の説明は,ここのところがいまひとつ明確ではない。普遍語と現地語をヒエラルヒーの上下に位置づけてしまったがため,現地語の固有の意義がはっきりしなくなってしまったのだ。現地語や母語には,普遍語に翻訳しきれない特権的価値があり,そこから「文学の真理」は生まれてくる。おそらくそういうことだろうが,そこのところが明確ではない。
 
ここのところは,もし著者が丸山眞男を読んでいたのであれば,あの「教義―観念―時代精神」の図式が利用できたはずだ。そうすれば,「普遍語―国語―現地語」の説明が,もっとダイナミックに,わかりやすく説明できていたであろう。
 
(5)「学問の真理」と「文学の真理」
この普遍語と現地語(母語)の問題は,「学問の真理」と「文学の真理」の区別,あるいは「テキストブック」と「テキスト」の区別という観点からも,議論されている。これも,分かったようで,よく分からない。著者はこう説明している。
 
<テキストブック>を読めばすむ<真理>を代表するのが<学問の真理>なら、<テキスト>そのものを読まねばならない<真理>を代表するのが,<文学の真理>である。(p152)
 
くり返すが、この世には二つの種類の〈真理〉がある。別の言葉に置き換えられる〈真理〉と、別の言葉には置き換えられない〈真理〉である。別の言葉に置き換えられる〈真理〉は、教科書に置き換えられるく真理>であり、そのような〈真理〉は〈テキストブック〉でこと足りる。ところが、もう一つの〈真理〉は、別の言葉に置き換えることができない。それは、〈真理〉がその〈真理〉を記す言葉そのものに依存しているからである。その〈真理〉に到達するには、いつも、そこへと戻って読み返さねばならない〈テキスト〉がある。(p251)
 
真理には「学問の真理」と「文学の真理」があることは分かる。文学は数式には還元できない。そして「学問の真理」はテキストブックに書き留められ,それを読めば分かることも分かる。数学の真理は数式を読めば理解力のある人には理解できるからである。
 
では,数式にも還元できず,別の言葉にも翻訳できない「文学の真理」とは何か?  著者は,文学的真理は「言葉そのものに依存している」といい,またそれは「文体に宿る」(p153)ともいっている。では,ここでいう「言葉」や「文体」とは何であり,それらで表現される「真理」を「知る」とはどのようなことか?  
 
「テキスト」を「テキストブック」に翻訳していって,それでも最後まで翻訳しきれずに残る文学的真理とは何か? 難しいが,いつかは翻訳しきれるはずの「真理」なのか? それとも本質的に学問的には理解不可能な別個の「真理」なのか? 
 
もし別個の「真理」とすると,それがどうして複数者に共有されることを本質とする「言葉」によって表現できるのか? 翻訳不能な自分だけの「言葉」は,形容矛盾ではないのか?  いや,それよりもなによりも,いかに根源的・個人的な体験(本人のみの特権的「実感」と感じられるもの)にせよ,実際には,他者なしでは成立しないのではないか?
 
あるいは,「テキスト」や「文体」そのものに宿る「真理」とは,分からないけれど何かあるに違いないといった「真理」なのか? あるいは,分からないけれど「テキスト」や「文体」に何かあると,どうして分かるのか?  そんなものはないのではないか?
 
この問題の理解を一歩前進させるためには,実感(主観)と科学(客観)を媒介する美的判断,つまり特権的個別的実感(直接的体験)が他者にどう共感(共有)されるか,の考察が必要ではないか? 文学的真理は,著者が言うように「言葉」に依存するものであり,であるとすると,もっぱら科学と対比してその特権的個別性を擁護するのではなく,むしろ美的判断の対象として取り扱った方がよいのではないか?
 
以上のように,この問題は,切った張ったの俗な政治学をやっている私にとってはあまりにも難しい。分かるようで分からない。分からないようで分かる。そこが、文学の文学たるゆえんかもしれない。
 

Written by Tanigawa

2009/06/13 @ 11:36

カテゴリー: 文化,

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