平和のハトと,ハトを食うヒト
1.「平和の象徴」としてのハト
ハト(鳩)は,欧米でも日本でも,一般に「平和の象徴」と見られている。旧約聖書では,ハトがオリーブの小枝をくわえて箱舟に戻り,新約聖書では,聖霊がハトの姿でイエスのもとに降りてくる。
▼「旧約聖書」創世記:8-11
ノアはまた地のおもてから、水がひいたかどうかを見ようと、彼の所から、はとを放ったが、はとは足の裏をとどめる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰ってきた。水がまだ全地のおもてにあったからである。・・・・それから七日待って再びはとを箱舟から放った。はとは夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った。さらに七日待ってまた、はとを放ったところ、もはや彼のもとには帰ってこなかった。
▼「新約聖書」マタイ3:16
イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
▼同上,10:16
へびのように賢く、はとのように素直であれ。
日本では,たばこの「ピース」がハトのデザイン。紫煙をくゆらせ,ハトの平和を嗜むわけだ。
2.食用としてのハト
しかし,ハトにとって,人間社会は平和なところばかりではない。ハトは,ヒトによって食用として飼われ,殺され,食われてしまうこともある。なんて野蛮,残酷! そんな悲鳴が聞こえてきそうである。
しかしながら,ハトを食べる文化は,決して珍しくはない。中近東では一般的だそうだし,ネパールでも食用にハトを飼っているところはある。私自身,山麓トレッキングのとき,小さなハト小屋のある農家をあちこちで何軒も見ている。
食用鳩のことは,したがって私も知ってはいたが,その一方,長年にわたる西洋キリスト教文明の刷り込みにより,私の心の中には,「ハト=神聖=平和」という心象イメージができあがってしまっていた。だから,ルンビニの近くのタルー民族の村で,ハトが食用として広く飼育されているのを見て,少なからぬショックを受けた。
この村のハト小屋は,大きな立派な粘土製で,小屋というよりはマンション。そんな豪華なハト小屋マンションが,各農家の庭先にデーンと据えられ,ハトが頻繁に出入りしている。平和といえば平和な風景だが,「ハト=神聖=平和」の心象イメージが強いだけに,殺され食われるためかと思うと,「残酷,かわいそう!」という感情に捕らわれるのをどうしても禁じえなかった。
食は性と同様,文化の基底にあり,食生活の相違は,知識としては理解していても,感情としては,なかなか納得できるものではない。聖牛文化圏の人であれば,神戸牛を見てよだれを垂らすようなことは,けっしてないだろう。クジラ高等動物信者は,牛を殺して食っても,捕鯨は生理的に嫌悪するだろう。
3.異文化の実地学習
私自身,今回,イタハリの食堂で昼食中,たまたま朝食で残したゆで玉子があったので食べていたら,店員が血相を変えて飛んできた。全く気づかなかったのだが,そこは菜食主義(ベジタリアン)食堂だったのだ。
不注意を平謝りし,何とか許してもらった。内心,ゆで玉子くらい,と思わないでもなかったが,これは,インド国境付近を旅しているにもかかわらず,地元食文化に鈍感だった私の誤りである。よい勉強になった。
人類を救ったハトは,救った人間に食われることもある。不殺生の聖地ルンビニで,そんなことも実地学習した。
谷川昌幸(C)
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