ネパール評論

ネパール研究会

菅野完著『日本会議の研究』

おくればせながら『日本会議の研究』を読んだ。推理小説のように面白い。ベストセラーになるのはもっともだ。衝撃的なのは,丹念な裏付け調査により導き出された次のような結論。

「やったって意味がない、そんなのは子供のやることだ、学生じゃあるまいし‥…と、日本の社会が寄ってたかってさんざんバカにし、嘲笑し、足蹴にしてきた、デモ・陳情・署名・抗議集会・勉強会といった『民主的な市民運動』をやり続けていたのは、極めて非民主的な思想を持つ人々だったのだ。そして大方の『民主的な市民運動』に対する認識に反し、その運動は確実に効果を生み、安倍政権を支えるまでに成長し、国憲を改変するまでの勢力となつた。このままいけば、『民主的な市民運動』は日本の民主主義を殺すだろう。なんたる皮肉。これでは悲喜劇ではないか!」(p297-8)

たしかに「悲喜劇」。だが,この流れをどう阻止するか? 著者は,こう続けている。

「だが、もし、民主主義を殺すものが『民主的な市民運動』であるならば、民主主義を生かすものも『民主的な市民運動』であるはずだ。そこに希望を見いだすしかない。賢明な市民が連帯し、彼らの運動にならい、地道に活動すれば、民主主義は守れる。」(p298)

正論であり希望ではある。しかし,賢明なはずの市民は,すでに「民主的な市民運動」において完敗している。同じようなことを,戦後,はるかに合理的・組織的・大規模に展開しながら,「賢明な市民」の方はなぜそれを継続できず,敗北してしまったのか? 日本会議にあって「賢明な市民」になかったものは何か? そこを追及し,「賢明な市民」の弱点を直視し克服しなければ,同じことをしても敗北を重ねるだけではないだろうか? 難しく悩ましく危険でもあろうが。

160612a 160612b

*菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書,2016年5月,800円

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2016/06/12 @ 13:53

カテゴリー: 政治, 民主主義

Tagged with , ,