ネパール評論

ネパール研究会

山麓マラソンの酔狂と平和貢献

某ネパール情報によると,鉄の女や男が,またまたアンナプルナ山麓を走ったらしい。50~100km。わが青春時代に,ヒィヒィ,ゼィゼィいいながら這うようにして登ったあの急峻な山腹を駈け上り駆け下ったというから,「なんと酔狂な!」とあきれるやら,感心するやら。何の因果で,こんな苦行をやらねばならないのだろう?

 ガンドルン(1985)

まぁ,人間は食って寝て生涯を終えることでは満足できないやっかいな動物,何かをせざるを得ないらしい。何をするか? 限られた人生,どうせなら面白いことに限る。では,何が面白いか? 面白いのは,一言でいえば,役に立たないこと。役に立つこと,特に金儲けや出世が目的となると,活動は手段となり,面白くなくなる。活動は,それ自体を目的とするとき,他の役には立たず,それゆえ面白い。何の役にも立たない物好き,酔狂な活動こそが,人間をして無我夢中にさせるのだ。

ヒマラヤ・マラソンは,その典型だ。こんなことをやっても,何の役にも立たない。苦しいだけだ。怪我をしたり,下手をすると死ぬかもしれない。損得からいえば,損するだけ。それでも,鉄の男や鉄の女が,とりつかれたように無我夢中になって走ったらしい。酔狂なことだ。なぜ,そんな(損な)ことをするのか? 面白いから,としか考えられない。

活動に没入し酔狂に徹すると,雑念(金儲けや出世)が滅却され,人は純化される。一心不乱に遊ぶ子供のようなものだ。この無邪気な子供は,雑念をもたないから,自分たちの体験を共有し理解し合えるのだ。

アンナプルナ・マラソンには,外国からも酔狂な人々が多数参加したという。彼ら,鉄の女と鉄の男は,雑念を振り払って走り,走りながら雑念を振り払い,自然人に返っていったのだろう。彼らは走るという純粋経験を共有し,そこからは深い相互理解が生まれる。スポーツとは,本来,そのようなものであるはずだ。

 ガンドルン(1985)

これと対照的なのが,近頃のプロ・サッカー。ナショナリズム丸出しで,私は大嫌いだ。入場時の子供利用もイヤラシイ。オリンピックも大嫌い。国旗掲揚なんか見たくもない。サッカーもオリンピックも,スポーツではない。我利我利亡者の争いが,本来のスポーツであるはずがない。

アンナプルナ・マラソンでも,ネパール国軍からの参加者が,途中で車に便乗するなど,ズルをしたらしい。走ることが手段になると,そのようなことが起こる。こんな体験は共有できない(共有したら山麓マラソンは成立しない)。しかし,そんなズルは例外であり,ほとんどの人は走ることそれ自体を目的に走り,体験を共有し,相互理解を深めあったという。

ヒマラヤ・マラソンは,平和貢献を目的にはしていない。走ることそれ自体が目的であろう。が,逆説的ながら,そのような非政治的な経験の共有こそが,相互理解の拡大・深化をすすめ,平和に大きく貢献することになるのである。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/01/22 @ 22:08