ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

ガディマイ祭:動物供儀をめぐる論争(8)

5.動物供儀の根源的意味
ガディマイ祭では,毎回,水牛だけでも数千~1万頭も供儀されてきた。見世物化・商業化し,衛生上も問題が多いといわれている。おそらく,そうであろう。

しかしながら,動物供儀には,「かわいそう」といって一方的に非難し拒絶して済ますことのできないような,歴史的・文化的・倫理的・宗教的な意味もあるのではないだろうか? 

たとえば,動物にも「人権」ないし権利を認め,「人道的」な扱いを求める動物愛護の主張の背後には,動物を食用や衣料用などに利用して生きているという厳粛な事実を直視したくないという人々の願望が隠されているのではないだろうか? あるいは,生物を理性の有無により峻別し,理性ある人間は,理性ある動物の「人権」を尊重し「人道的」に扱うべきだが,他の理性なき生物についてはそのような配慮は必要ないといった差別的生命観が,その主張の根源にはあるのではないだろうか?

穀物や動物の供儀は,日本を含め世界各地に古くからある。その挙行方法は多種多様だが,人々にとって最も大切な生命を神に捧げ,神に感謝し,その加護を願うという最も基本的な点では,みな共通しているように思う。あるいは,供儀後の穀物や肉を食べるのであれば,聖別された穀物や肉を神の前で―神から恵まれたものとして―食べ,他の生物の生命の犠牲により生きざるをえない人間の業―原罪―の許しを願う。さらには,そうした罪意識があまりないところでも,食物を神に捧げたあと,それを神の前で,神と共に食べる―神人共食―ことにより,人は神や食を共にする他の人々と親密に結びつき,神の加護の下で豊穣や子孫繁栄などを願う。このように,食物を神に捧げる慣習は,方法は異なれ,世界各地に古くからみられる。

さてそこで問題は,動物供儀が「反人道的」,「反人権的」で許されないか,ということ。動物供儀擁護派は,以上に見た限りでは,この問いに正面から答えてはいない。人々が供儀を望むから,供儀せざるをえない。あるいは,求められた供儀に応ずるのは,ヒンドゥー司祭の義務だなどと答えるのみ。逃げのよう見えてならない。

この問いにつき,私見を一言でいえば,たしかに「かわいそう」ではあるが,決して「反人道的」,「反人権的」ではないということに尽きる。

われわれ人間は,毎日,大量の動植物の生命を殺し食べて生きている。が,それら動植物の生命が奪われ食品へと加工される現場の人々以外は,生命が奪われる現場は見てはいない。動物も魚も野菜も穀物も,殺され,切り刻まれ,加工され,ビニールパックや小袋に入れられ,商品として美しく店頭に並べられ,売られ,買われていく。われわれ大多数の人間は,動植物の死骸を買い,調理して食べ,生きているにすぎない。その根源的な事実を,われわれは忌避し,見ようとはしない。

人間に食われる動植物の側からすれば,自分たちの唯一無二の生命が奪われるその峻厳な事実を見られ知られることもなく,自分たちの身体が切り刻まれ「おいしそうな」商品食品へと加工され,売買され消費されるのは,耐えがたく許しがたいことであろう。

動植物を殺して食べている事実をしかと見つめ自覚しつつ食べる人と,そこから目を背け,目の前の「おいしそうな」加工食品を食べる人。いずれが動植物の生命の「尊厳」を尊重しているのか?

むろん,そうはいっても,動物に無用な苦痛を与えてよいということにはならない。「熊いじめ」など,見世物化した「流血スポーツ(blood sports)」は,生命の弄びであり,許されることではない。また,逆に,動物の行き過ぎたペット化,愛玩化も,動物の本性・自然(nature)を否定しその尊厳を奪うものであり,決して許されてはならない。

では,ガディマイ祭はどうか? たしかにガディマイ祭にも,反対派が非難するように,見世物化した流血スポーツの要素が多々あるし,衛生面でも問題はある。そうした点は,今後,改めていかなければならない。

しかしながら,だからといって動物供儀そのものを「反人道的」とか「反人権的」とかいって禁止するのは,倫理的に道理が通らない。

ガディマイ祭反対派は,動物の代わりに「花」や「ココナッツ」を供えよ,と主張しているが,供えられる「花」や「ココナッツ」も大地に根を下ろす母体から切り離され「生命」を奪われているのだ。植物や微生物や昆虫や小動物らは,「自己意識」や「理性」をもたない(とされている)ので,人間の都合で殺してもよいということか?

不殺生(アヒンサー)は,徹底すると,生命あるものは何も食べられなくなる。人は生きるために何かを殺して食べざるをえない。あるいは,直接殺さなくても,食糧生産のため「害獣」,「害虫」,「雑草」,「病原菌」など無数の生物を「駆除」し殺している。人は他の生命の犠牲により生きている。だからこそ,その業ないし原罪の許しを請うため,いかに苦しく辛かろうが,死を直視する努力をし,神や仏や大自然など,自らの信じるもの,信じたいと願っているものに,祈るのだ。

ガディマイ寺院やダクシンカーリ寺院などにおいて敬虔に動物供儀を行うこと――それ自体は,決して禁じられるべきことではない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2020/01/04 @ 15:41