Archive for 4月 2018
老老介護,事始め(4):認知と行為の断絶
母の認知能力は,いま思い返すと,十数年前から減退し始めていた。小銭入れやメガネなどを置き忘れ紛失したり,冷蔵庫から取り出した食品を入れ忘れたり。しかし,そうした物忘れは誰にでもあることであり,日常生活にさして支障はなかった。
数年すると,物忘れがひどくなり,ガスコンロや石油ストーブの消し忘れも始まったので,それらをすべて撤去し,安全装置付き電気器具に置き換えた。その一方,物事の判断もおかしくなり始め,冷凍庫に缶詰を入れたり,使い捨て紙パンツを洗濯機で洗ったりするようになった。この頃から生活にある程度支障が出始めたが,それでも生活環境を整え,少し用心さえしておれば,まだ自立して暮らしていけた。
しばらくすると,これまで長年にわたって繰り返し行ってきた洗濯機や風呂給湯器の操作ができなくなった。いずれも自動運転で,「電源入れる」と「運転開始」の2つのボタンを押すだけ。仕方ないので,それぞれのボタンに①,②の印をつけ,壁に「①を押してから,②を押す」と大書した紙を貼り付けた。炊飯器,電子レンジ,電気ストーブなどの他の機器や,玄関錠などにも同様の操作指示書をつくり見やすいところに掲示した。
また,この頃には,お金の計算ができなくなり始めた。お金がいくつかの財布に入っているときや,千円札,五千円札など異なる紙幣があるときは,途中で忘れてしまい,何回やっても合計金額を出せなくなった。仕方ないので,一区切りごとに紙に金額を書き留め,あとで合計を出すことにした。いくつかに区切れば,数え,書き留め,あとで合算することはできた。
日付や薬を飲むことも,忘れ始めた。そこで,新聞を見てカレンダー日付を1日ずつ×印で消していき,その日の薬を飲むようにした。これも,指示通りできた。
このように,この段階では,必要な操作や行動を紙に書き,近くの見やすいところに貼っておけば,家中,掲示だらけとはなったが,一応,それに従って行為できたので,何とか自立して生活を続けることができた。
ところが,1年ほど前から,この「文字書き操作指示」に従い行動することが出来なくなり始めた。当初,なぜ指示に従えないのか,まったく理解できなかった。毎日,新聞や雑誌を読み,メモなど文章を書くことも問題なく出来た。では,なぜ「操作指示」に従わないのか? わざと指示を無視し,勝手なことをしているのか? そう疑い,怒ったり叱りつけたりした。しかし,いくら繰り返し掲示の指示通り操作せよと言い聞かせ,実際にやって見せても,効果は全くなかった。
そんなとき,お金を数えさせていて,はっと気づいた――ある種の認知ないし記憶は瞬時に失われ,次の行為につながらないのだ,と。千円札を持ち,1枚,2枚,3枚・・・・と数え,12枚で1万2千円と認知する。ここまではできる。ところが,ボールペンを持ちノートに書きつけようとすると,もうその「合計1万2千円」という認知は記憶から消え去ってしまっている。だから,何回も数えては忘れ,数えては忘れを繰り返し,いつまでたっても合計金額をノートには書けない。
そう,そういうことだったのだ! 毎日,新聞,雑誌を読み,相当難しい文章を理解している。だから「①を押してから,②を押す」といった指示も,何の問題もなく理解している。しかし,読み理解してから,それを自分の身体の動き(指で押す)に移すまでの間に,読み取った指示を忘れてしまっているのだ。他の指示もすべて同じこと。
こと,ここに至って,自立した生活はもはや無理と判断せざるをえなくなったのである。
▼脳の変化と認知症
*厚労省HPより
谷川昌幸(C)
老老介護,事始め(3):天恵としての認知症
高齢の母を自宅そばのアパートに呼び寄せ介護を始めて3か月余。当初,自分のためにも日々の出来事を整理し要点を備忘録風に書き留めておくつもりだったが,すぐ,それがいかに甘い考えであったかを思い知らされることになった。
母は中程度の認知症(痴呆症)。たいていは,はほぼ平穏に暮らし,特に危険なことをするわけではない。だから在宅介護でも大丈夫と考えたのだが,ときたま,しかもちょっと目を離したすきを狙いすますかのように,放置できないようなことをする。鍵をこじ開け外出したり,スイッチや蛇口をいじったり,引き出しや冷蔵庫をひっかきまわしたり,等々。まるで,こちらの方が監視され,わずかのスキを狙われているかのよう。まったくもって不思議?
そのため,平穏そうであっても常に気配に注意し,変なことをしないか見張っていなければならない。これは疲れる。四六時中,気が休まるときがなく,何をしようとしても集中できない。焦り,いら立ち,徒労感にさいなまれる。
とはいえ,在宅介護を始めた3か月前と比べると,認知症対応に少し慣れてきたこともまた事実だ。他のことも,集中はできないが,それでも途切れ途切れに時間を使い,ある程度やれるようになってきた。そこで,この「老老介護,事始め」も,とりあえず再開してみることにした。
***** ***** *****
母の認知症(痴呆症)は,アルツハイマー型。記憶障害,判断力低下,見当識障害(日時,場所,人物などの認知障害)が,教科書通り,ネット情報通り,出ている。家族による介護は困難を極めるが,病気自体は,高齢者には多かれ少なかれ数人に一人はみられる,ごくありふれたものだ。
が,しかし,加齢に伴う認知能力の低下を「病気」と呼び,必要以上に恐れ,治療しようとする今の行き方は,根本的な誤りのような気がする。それは,「病気」ではなく,自然な老化現象の一部なのではないか?
というよりもむしろ,認知能力低下は,正気では到底直視できない恐ろしい「死」を見つめることなく,穏やかに「死」を迎えるための神の恩寵かもしれない。
人間は,はるか昔のあるとき,神の命令に背き,「認識の木の実」を食べ,認知能力を取得した。これは罪であり,罪は処罰される。人は,罪の意識に恐れおののきつつ認知し,どうしても認知できない,あるいは認知したくない物事,特に死に直面した時には,認知の罪を告白し,神の許しを請うた。人は,認知を断念することによりはじめて,罪を許され,救われ,「永遠の平和」に立ち戻ることができたのである。
ところが,近代に入ると,人間は原罪を忘れ,人間の力で万物を認知し支配したいと考えるようになった。知はそれ自体善であり,力である! 人間は,認知能力を高め自然(物理的自然と人間的自然)を理解すれば,それを存分に使いこなし,より豊かな,より幸せな生活を実現することができる。
この近現代合理主義を前提にすると,たとえ加齢によるものでも認知能力喪失は悪であり,治療すべき「病気」となる。人は,最後の最後まで正気で生き,死苦を直視し認知しつつ死ななければならない。何たる残虐! そんな近現代社会は,社会の方が倒錯し病んでいるのではないか?
加齢とともに認知能力が低下するのは,自然な成り行きであり,神の恩寵である。高齢者が,認知能力を喪失しても,そのあるがままの自然な姿で平穏に暮らしていける諸条件を整えた社会――日本はそうあってほしいと願っている。
▼認知症の人数と割合
*MUFGホームページより
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(10)
1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
(1)キリスト教の急拡大
(2)布教の法的規制
(3)布教規制撤廃の働きかけ
(4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由
5.タマンのキリスト教改宗
(1)民族/カースト別キリスト教改宗率
(2)タマンの改宗:M・ジョンソンの分析
(3)タマンの改宗:T・フリックの分析
(A)調査地:ティムリン村[以上,前述]
5.タマンのキリスト教改宗
(3)タマンの改宗:T・フリックの分析
(B)村民ドルジェの改宗
フリックが聞き取り調査したのは,ティムリン村の初の改宗者ドルジェ・ガーレ。娘の病気をきっかけに1990年,彼が36歳のとき,妻とともにキリスト教に改宗した。
キリスト教は,ドルジェ改宗(1990年)以前の1980年代には,すでに近くのジャーラン(Jhalang)村やラブドゥン(Labdung)村には布教されており,信者がいた。ジャーラン村にはドルジェの友人がいたし,ラブドゥン村には妻の実家があった。
1990年改宗以前のある日(年月日不明),ドルジェの娘マヤワティが病気になった。父ドルジェは,慣習に従い,ヤギや羊などを犠牲にささげ,ボンボやラマに繰り返し祈祷してもらった。しかし,伝統的方法をいくら続けても,娘はよくならなかった。
困り果てていると,ラブドゥン村の義父(妻の父)が,自分の村にはクリスチャンがいるので,呼んできて回復を祈ってもらおうと提案した。
義父がラブドゥン村のS・タパのところに頼みに行くと,彼をはじめ約30人の信者がやってきて,娘の回復を祈ってくれた。すると,すぐ娘はよくなりはじめ,やがて全快した。費用のかかる犠牲や儀式は不要だった。
これをきっかけに,ドルジェは古いダルマを捨て,新しいダルマ,キリスト教を信じるようになった。
では,このドルジェのキリスト教改宗をどう解釈すべきか?
(C)改宗の西洋的解釈の不十分さ
ネパールにおけるキリスト教改宗の理由ないし動機については,西洋的な観点から,政治,経済,教育,病気治療など様々な実利と結び付け,あるいは布教活動の成果として,外在的に解釈される場合が多いが,いずれもそれらだけでは改宗理由の説明としては十分とは言えない。
ティムリン村の生活が,1980年代後半から大きく変わり始めたことは,事実である。賃労働が増え,職場も当初は近くの道路工事や鉱山だったが,やがてカトマンズや湾岸諸国への出稼ぎとなった。
1990年にはじまるティムリン村の改宗は,そうした生活環境の変化の下で行われた。しかし,この変化を改宗理由とすることは無理である。村人のうち新しい仕事に関係していた人々は改宗に消極的であり,改宗したのはむしろ伝統的な仕事をしている人々だったからである。
一方,ティムリン村の改宗と,1990年以降の民主化,開発,布教とは,かなり密接な関係がある。
「ティムリンの改宗は1990年以降の動きの一部である。それ以前に,おそらく1980年頃,南側のジャーランで多くのタマンが改宗した。そこの政治権力者や警察は彼らを殴りつけ投獄した。こうした『地下』生活にもかかわらず,1990年以前に,ジャーランのクリスチャンが何人かティムリンを訪れていた。布教に来たのだが,まったくの門前払いだった。改宗は違法,これが要するに布教活動への対応であった。このような態度は,1990年以降,民主化運動が始まり,キリスト教がそれと関係づけられ始めると,変化した。
この政治と改宗との結びつきは,1990年以後の初の選挙に見て取れる。旧秩序を代表するのはティムリンのラマたちと緊密な関係にある人物であり,これに対抗するのがいまや合法となったコングレス党の党員であった。そのコングレス党の政治家は,自らクリスチャンであると実際に明言することは決してなかったが,そのような噂の流布は容認していた。というのも,そのような噂が彼と新秩序との結びつきを様々なレベルで強化してくれたからである――[旧秩序と闘う]野党の一員であり,西洋的『近代』を代表する者であり,そして,キリスト教諸教会との結びつきにより得られると多くの人々が考え期待した多くの金や物との仲介者である,と。さらに,[改宗と]開発との結びつきが,ティムリンで周知の呼び方で広まりさえした。たいていの人が,キリスト教のダルマを農民のダルマ(kisan dharma)と呼び変えた。そして,この農業と西洋との結び付けが,開発(bikas)との結び付けを容易とした。というのも,新しい農業技術を持ち込む来訪者たちが開発をもっぱら目的にしていることを,つねに見聞きしていたからである。」(p.2-3)
「ティムリンの人々は,カトマンズに出て俗人牧師教育を受け始めると,クリスチャンとの付き合いが深まり,彼らが獲得した新たなダルマには異なった宗派的な解釈があることを知った。さらに彼らは,1990年以降のネパールにおける激しい布教競争の下で,外国の教会が新しい布教地でその教会を代表する人々に仕事,教育,金など様々なものをくれることにも気づかされた。」(p.3-4)
しかしながら,それでもなお,これらは外部要因による改宗の外在的解釈であり,ティムリン村のような改宗の説明としては十分ではない。そう著者は考えるのである。
(D)自発的動機による改宗
タマンの人々は,古来,交換と分かち合いを基軸とするダルマ(徳,宗教)を大切にして暮らしてきた。そして,不幸にして強欲がはびこり悪政に陥りダルマを維持できなくなると,そのつど彼ら自身で新しい王やラマを探して迎え,ダルマを回復した。ティムリン村のキリスト教改宗も,以前と同様,村人自身が失われたダルマを回復するために行われた。
「ティムリンの改宗は,布教ミッションによることなく,村人自身の意思により行われた。タマンの人々は,自分たちに新しいダルマを教えてくれるネパール人のクリスチャンを探し出した。」(p.2)
「最初の改宗以降の展開は,むろん複雑であり,完全には思い通りにはならないであろう。・・・・[とはいえ]ティムリンの人々は,キリスト教への改宗の当初は祖先に極めて近い行動の仕方をしたと私は考えるのである。」(p.18-19)
――以上のように,この論文の結論は,いかにも人類学者らしく,キリスト教改宗の自発性・内発性を強調するものとなっている。
たいへん面白いが,その一方,タマン社会において伝統的なダルマがなぜ維持できなくなったのか,そしてまた,彼らがどこまで自覚的にタマン社会の伝統的な交換と分かち合いのエートスないし徳の回復・維持を目的としてキリスト教を取り入れたのかを考えると,改宗の自発性・内発性を強調する著者の結論にはやや無理があるようにも思われる。娘の病気を治してくれたのでキリスト教を信じるようになったというのは,政治,経済,教育など他の実利のための改宗と構造的には異ならないように見えるのだが。
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(9)
1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
(1)キリスト教の急拡大
(2)布教の法的規制
(3)布教規制撤廃の働きかけ
(4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由
5.タマンのキリスト教改宗
(1)民族/カースト別キリスト教改宗率
(2)タマンの改宗:M・ジョンソンの分析[以上,前述]
5.タマンのキリスト教改宗
(3)タマンの改宗:T・フリックの分析
タマンの改宗を扱った文献としては,他にも,たとえばトム・フリック「タマンの改宗:文化・政治とキリスト教改宗の語り」(2008, *1)がある。著者はミシガン大学人類学教授で,この論文もネット掲載。タマン改宗者からの聞き取り調査をもとに,キリスト教改宗の動機や過程が実証的に記述・分析されており,改宗の内発性を強調する結論部分はやや難解だが,改宗過程の具体的記述はたいへん分かりやすく,読んで面白い。以下,概要を紹介する。なお,被調査タマンの人々は仮名とされている。
(A)調査地:ティムリン村
著者のトム・クリックはタマン調査に1981年に着手し,10年後の1990年頃から研究成果を次々に発表した。「タマン家族調査プロジェクト(報告)」(1990,*2),「ネパール・ヒマラヤにおける基礎構造:ガーレ‐タマン婚姻の相互性と上下関係政治」(1990, *3),『ヒマラヤの世帯:タマン人口動態と世帯の変化』(1994,*4),そしてここで紹介する「タマンの改宗」(2008, *1)など。
「タマンの改宗」の調査地は,ダディン郡のティムリン村。フリックは「Timling」と表記しているが,著者らの報告「タマン家族調査プロジェクト」の表紙や地図では「Tipling」となっており,現在の地図でも「Tipling」とされている,他にも「Tibling」の表記もある。同じ村と考え,以後,ティムリンと記す。
ティムリン村は,ダディン郡の北部,アンク川(アンクコーラ川)上流域にあり,近くにセルトゥン(Sertung)やジャーラン(Jhalang)がある。村(VDC全体ではなくティムリン村だけ)の人口は,1980年代で約650人。タマンとガーレがほぼ半分ずつで,農耕と牧畜を生業とし,タマン語が話されている。キリスト教改宗以前は,伝統的なチベット仏教やシャーマン信仰であった。
このティムリンの村民が,1990年民主化前後にキリスト教に改宗しはじめ,遅くとも2008年(調査発表の頃)までにはラマ2家族と村長家族を除き,ほぼ全村民がクリスチャンになったのである。
*1 Tom Fricke, “Tamang Conversions: Culture, Politics, and the Christian Conversion Narative in Nepal,” Contributions to Nepalese Studies, Tribhuvan Univ. 2008.
*2 Tom Fricke et al., “Tamang Family Research Project,” Report to the Center for Nepal and Asian Studies, TU, May 1990.
*3 Tom Fricke, “Elementary Structures in the Nepal Himalaya: Reciprocity and the Politics of Hierarchy in Ghale-Tamang Marriage,” Ethnology, 1990
*4 Tom Fricke, Himalayan Households: Tamang Demography and Domestic Processes, 2nd. ed., Columbia Univ. Press, 1994
*5 Tom Fricke, “Marriage Change as Moral Change,” G.W. Jones et al ed.. The Continuing Demographic Transition, Oxford Univ. Press, 1997
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(8)
1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
(1)キリスト教の急拡大
(2)布教の法的規制
(3)布教規制撤廃の働きかけ
(4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由
5.タマンのキリスト教改宗
(1)民族/カースト別キリスト教改宗率[以上,前述]
5.タマンのキリスト教改宗
(2)タマンの改宗:M・ジョンソンの分析
タマンの人々のキリスト教への改宗については,専門的なものから時事的なものまで,多くの言及がある。たとえば,ネット掲載のものとしては,マーク・ジョンソン「恩寵と貪欲:タマンのキリストへの動きとそれを損なうもの」(*1)。
ただ,この文献については,著者のことも掲載誌のことも,いまのところよくわからない。掲載誌『Voice of Bhakti』は,ネパールないしヒンドゥー社会においてキリスト教布教を目指す「バクティバニ」のウェッブサイトに掲載されており,著者のマーク・ジョンソンはそのウェッブサイト編集者のペンネームだということだけ。この点がいささか気がかりだが,記述自体は比較的わかりやすいので,以下,要点を紹介する。
(A)タマン村民の改宗(「恩寵と貪欲」要旨)
「この20年のネパール教会史において最も意義深いのは,疑いもなく,タマン社会集団[コミュニティ]に属する多くの人々がキリストのもとに集うようになったことである。」
タマンのキリスト受容において重要であったのは,1960年代の二つの出来事である。一つは,1960年代半ばに,二人の聖書伝道者[おそらく西洋人]がヌワコットにやってきて,一人のタマンを助手として雇ったこと。やがて彼はキリスト教に改宗し,その彼を通して彼の村や近隣の村々の人々も改宗,彼ら自身の教会をつくっていった。
もう一つは,同じころ,一人の指導的牧師[国籍不明]に導かれ,ダディン郡の二人のタマンがキリスト教に改宗したこと。数年前,そのうちの一人の家に行き,話を聞くことができた。
「私は,ダディン山地の村のラマだった。たいへん尊敬されていた。ある日,妻が病気になった。治すため出来ることはすべて試みたが,妻はよくならなかった。そうしたとき,ヨハネ福音書を目にし,読み,感動した。その直後,近くの村からキリスト教徒が何人か私のところにやってきた。迫害されているので,私の村に避難させてほしいとのこと。その彼らから福音について聞き,すぐ私自身もキリストを信じるようになった。彼らは,イエスの名をもって妻のために祈ってくれ,これにより妻は癒された。ところが,彼ら信者への迫害はなおも続いたので,彼らはラモゴダ[位置不明]に移住した。しばらくして,私もラモゴダに移り,そこに教会をつくった。
二人のうちのもう一人は,ナワルパラシ郡に移住し,そこで何千人ものタマンの牧師となった。
このような形のキリスト教への改宗が,何年か続いた。ところが,1980年代末になると,状況は大きく変化した。ダディン郡北部,アンク・コーラ谷地域において,キリスト教改宗への大きな動きが始まったのだ(外部からの訪問者の報告によると,1985年にはその動きは始まっていた)。1990年5月にラモゴダの指導者から聞いたところによると,2万人ものタマンがキリストを信じるようになった(リパートの推計も同じ)。この改宗は,部外者の意図的働きかけによるというよりは,むしろ自発的な動きによるところが大きいと思われる。この指導者はラモゴダを拠点としていたが,そこから自分の聖書と傘だけをもち,徒歩数日の[アンク・コーラ谷の]これらの村々を定期的に訪れていたという。」
(B)タマンの改宗理由
タマンのこのようなキリスト教改宗への動機ないし理由について,マーク・ジョンソンは,B・リパート(*2)やD.H. ホームバーグ(*3)を援用しつつ,次のように説明している。
第一に,グローバル化と経済,政治の変化。1980年代頃からネパール農業は伝統的共同体的農作業から農業労働者使用へと変化し始め,生産性も向上した。
出稼ぎも変わった。以前は主にインドやブータンに出稼ぎに行き,得た金はたいてい食料等の生活必需品の購入に充てた。一方,少数の金持ちは威信維持に必要な儀式などに金を使っていた。ところが90年代以降になると,出稼ぎ先は湾岸諸国や東南アジアになり,得た金は電化製品などの新しい生活用品の購入に回されるようになった。
さらに政治も民主化され,政党政治となり,特に選挙では個々人が選択を迫られ,伝統的共同体的な結びつきが揺らぎ始めた。
こうした政治・経済の変化の結果,タマンの伝統的宗教も現代世界の多くの宗教の一つと見られるようになった。
第二に,教育の普及。若い世代の人々は,教育を通して新しい諸価値や科学的思考に触れ,伝統的タマン文化をしばしば拒否するようになった。そして,識字能力を身につけた人々は,聖書の読み聞かせなど,キリスト教普及の中心ともなってきた。
第三に,病院や診療所――多くはミッション系――による西洋医薬品による治療。それらの方が治療効果と経費の点で勝ることを知り,祈祷や供儀など伝統的病気治療への疑問が広がった。ラマ,シャーマンらの権威の失墜。
こうして,タマン社会は特に1990年代以降,大きく変化した。M・ジョンソンはこう述べている。
「タマンの世界は,もはやかつてのように地域内に閉ざされた狭い社会ではない。今日では,カトマンズ大都市圏に行ったことがないタマンは,ほとんどいない。ソハクッティからタメル北部付近は,タマンのお隣さんといってもよい。カトマンズに出たいタマンには,たいてい従兄弟やおじがいて,そこに滞在することもできる。さらにカトマンズでは外国人に出会ったり,テレビを見たりして,両親は夢にも見なかったような大きな世界にむけ心を開くことになるのである。」
(C)なぜプロテスタントか?
最後にもう一つ,タマンの人々が主として受け入れたのはプロテスタントだったが,それはなぜかという疑問。この点について,M・ジョンソンは次のように説明している。
ヌワコット~カンチャンプルの地域にはタマン教会が140あり,5万人の信者がいるが,大半は福音派プロテスタント。
キリスト教は,神を直接礼拝できるので仲介者はいらないし,伝統的儀式や動物供儀も不要であり,費用がかからない。「タマンが万人司祭の宗教改革原理を歓迎していることは明らかだ。」
プロテスタント伝道師は,伝統的な宗教や文化との明確な断絶を求める。これに対し,カトリック宣教師は,それらとの結びつきを出来るだけ保とうとする。これが,村人たちには,ラマやシャーマンへの妥協と見えた。そのため,タマンはプロテスタントの方にひかれ,プロテスタント教会の信者となった。
「タマンは,たしかにプロテスタント伝道師たちの訴えをよく受け入れた。それは,彼らの訴えがタマン社会の今の変化に沿うものと思われたからである。タマンは,プロテスタンティズムの方が,彼らにとっては今の新しい経済,政治,社会の在り方によりよく適合する,と考えているのである。」
以上の説明は,たしかに明快だが,少々強引なような気もする。タマンの人々は,どこまで教義を理解し比較したうえで,プロテスタントを選んできたのか? タマン居住地域ではプロテスタントの布教活動の方が活発だったので,結果的にプロテスタント教会が選ばれたのではないのか? 有力なカトリック教会のあるカトマンズ盆地では,タマンにもカトリック信者が多いのではないか? これは興味深い論点ではあるが,検討は今後の課題としたい。
*1 Mark Johnson, “Grace and Greed: The Making and Marring of the Tamang Movement to Christ,” Voice of Bhakti, Vol. 3, No,1, Feb. 2004.
*2 B. Ripart, “Innovations among the Poor: Conversions to Christianity in Central Nepal,” in Anand Amaladass ed., Profiles of Poverty and Networks of Power, 2001.
*3 David H. Holmberg, Order in Paradox: Myth, Ritual, and Exchange among Nepal’s Tamang, 1996.
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(7)
1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
(1)キリスト教の急拡大
(2)布教の法的規制
(3)布教規制撤廃の働きかけ
(4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由[以上,前出]
5.タマンのキリスト教改宗
ネパールにおけるキリスト教への改宗は,それでは具体的にどのように行われてきたのであろうか? これもケースバイケース,様々な形があろうが,ここでは統計上最も改宗者の多いタマンの人々の改宗について紹介したい。(民族/カーストごとの改宗率が一番高いのは先述のチェパン。)
(1)民族/カースト別キリスト教改宗率
ネパールの宗教別信者数は,ネパール政府中央統計局(CBS)が人口調査の一項目として調査し定期的に発表している。
ただ,宗教は複雑で微妙な問題。日本でも,正月は神社,盆はお寺,結婚式は教会といった慣行が珍しくないように,ネパールでも個々人の宗教をいずれか一つに特定することは難しい場合が少なくない。また,ヒンドゥー教が国教だったころは無論のこと,世俗国家になってからも,他宗教,特にキリスト教は警戒され,信者数が過少カウントされているといわれている。いわば,ネパール版かくれキリシタン!
とはいえ,いまのところCBS統計以上に便利な人口統計は見当たらないので,以下に,CBS統計の宗教に関する部分,あるいはそれに基づいた統計をいくつか紹介する。(教徒数最多のタマンと教徒比率最高のチェパンの部分は赤字表示。)
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(6)
4.改宗の理由
キリスト教会がネパールで布教し信者を増やしたいと考えるのは当然だが,それではネパールの人々はどうしてキリスト教を受け入れ信者となるのだろうか?
キリスト教改宗の理由ないし動機は,むろん人それぞれだし,また1つだけとは限らない。英国ジャーナリストのピート・パティソンは,その記事「多くのネパール人がキリスト教に改宗するのはなぜか」(2017年8月30日)において,主な改宗理由を4つあげ,次のように説明している(*1)。(*2参照)
<以下,引用>
「これほど多くのネパール人がキリスト教徒になろうと決心するのはなぜなのか? その理由は少なくとも4つある。
第一に,ダリットの人々が,キリスト教を,カースト制から逃れさせてくれるものとみていること。ネパール全国クリスチャン連盟(FNCN)によれば,クリスチャンの65%はダリットである。[マクワンプル郡]マナハリの近くの村のダリット牧師によれば,『村の高位カーストの人々は,われわれダリットを犬以下として扱ってきたし,・・・・いまでもなお,たいていはそう扱っている。・・・・これに対し,クリスチャンの間では差別はない。・・・・われわれはみな平等だ』。
しかしながら,そうはいっても,キリスト教が社会諸集団の垣根を取り払いつつあるわけではない。たとえば,マナハリやその近辺の教会は,チェパンの教会,タマンの教会,ダリットの教会といったように,カーストや民族ごとにそれぞれ別に組織されているとみられるからだ。
第二に,多くの改宗者が,長患いや原因不明の病気が治った後で,クリスチャンになっていること。彼らは,この治癒を奇跡と語る一方,薬(折々教会が配布)も効くと考えている。まだ十分な社会保険制度がないので,シャーマンのところや病院に行くお金がない人々にとって,これは大きな動機である。似非科学的な似非医者が地方だけでなく都市部にもはびこっている現状では,これは驚くべきことではない。
[第三に]お金もまた,大きな動機である。多くの人にとって,キリスト教はヒンドゥー教よりも,要するに安上がりで済む。ある女性によれば,ヒンドゥー僧やシャーマンは,『ヤギとニワトリで太る』といわれるほど多くの贈り物を儀式のために要求する。教会も十分の一税――収入の十分の一を教会に納める――をキリスト教徒に期待してはいるが,私が話を聞いた信者たちによれば,これは強制ではないし,また献金の代わりに食料品を献上することもできる。
といっても,それだけではなく,キリスト教がビッグビジネスともなっている地域もある。ある牧師によれば,『金のためにクリスチャンになっている人が何人かいることは確かだ』。その資金の多くは,海外から,特にアメリカと韓国から持ち込まれる。マナハリのあるシャーマンが私にこう語った――『(キリスト教牧師たちは)強欲だ。・・・・彼らは,四六時中,外国にメールを送り,お金を無心している』。震災後,マナハリのクリスチャン住民や外国人クリスチャンは,物資支援に特に熱心であった。人々の中には,こうした活動を露骨なご都合主義と見る人もいる。たとえば,ある地元ヒンドゥー僧は,こう述べている――『震災後,・・・・聖書が米袋に入れ持ち込まれた。・・・・聖書は,あらゆるものと組み合わせ,持ち込まれた。・・・・彼らは,金を使ってキリスト教を宣伝している』(*1)。
[第四に]重要だが,しばしば見過ごされる理由もある――信仰だ。たしかに,キリスト教改宗ネパール人の多くは,健康,お金,被差別など極めて実用的な理由で改宗するが,一方,そのような改宗が純真な宗教信仰に人々を導くことも少なくない。さらに別の人々にとっては,クリスチャンになることは,それ自体,信仰上の事柄である。あるキリスト教牧師が私にこう語った――『ありとあらゆる宗教の本を読んだが,私の疑問に対する答えが見つかったのは,聖書を読んだ時である』」。
<以上,引用>
さすが,アムネスティ・メディア賞などを受賞したP・パティソン,バランスの取れた改宗理由のリアルな分析だ。
その一方,改宗の歴史的・文化的分析は少し弱いように思われる。キリスト教は,日本では西洋近代文明とともにやってきた。幕末・維新以降,近代化を急ぐ日本の人々は,キリスト教の中に近代化の諸原理や資本主義の精神を求め,学び,そして,そのうちの何人かはキリスト教に改宗した。
これと同じようなことが,今のネパールでも起きているとみて,まず間違いはあるまい。ネパールにおけるキリスト教改宗は,パティソンの改宗4理由をこのような歴史的・文化的理由でもって補足すれば,いっそう理解しやすくなるであろう。
*1 Pete Pattisson, “Why many Nepalis are converting to Christianity,” The Wire, 30 Aug 2017
*2 Pete Pattisson, “They use money to promote Christianity’: Nepal’s battle for souls,” The Guardian, 15 Aug 2017
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(5)
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
(1)キリスト教の急拡大[前掲]
(2)布教の法的規制[前掲]
(3)布教規制撤廃の働きかけ
キリスト教会側は,この憲法や刑法による布教(改宗)規制に対し,2017年連邦議会・州議会ダブル選挙を好機ととらえ,その撤廃を政官界に働きかけた。
国民覚醒党のロクマニ・ダカル議員は8月10日,改正刑法案の改宗(布教)処罰規定を削除するよう要求した。「私には,この国が宗教の自由と人権を守る国際規約に署名していることを忘れ刑法改正を進めている,と思われてならない。・・・・どうか,ネパールは国際法に署名しながら国内法の制定・施行においては別のことをする国だ,などと世界から言われないようにしていただきたい。」(*5)
改正刑法案への大統領署名(10月16日)直前には,「宗教信仰の自由のための国際議員パネル(International Panel of Parliamentarians for Freedom of Religion or Belief [IPPFoRB])」ネパール支部が,10月9~12日の日程で,国際使節団をネパールに招いた。
IPPFoRBネパール支部長はロクマニ・ダカル議員。訪ネ使節団に参加したのは,IPPFoRB運営委員長でカナダ国会議員のデイビド・アンダーソンをはじめ,米欧,ラテンアメリカ,アジアの諸国の国会議員ら。彼らは,ネパールの大臣や議員,市民団体代表者らと会い,宗教の自由の保障を強く要請した(*6)。
また,IPPFoRBのネパール支部長ロクマニ・ダカル議員と運営委員長デイビド・アンダーソン議員は連名でコメント「ネパールにおける宗教の自由―転落の瀬戸際」を発表,次のように現状を厳しく批判し,内外協力して抜本的改革を実現するよう訴えた(*7)。
<以下,コメント要旨>
訪ネ使節団は,宗教の自由を制限する憲法26(3)条や改正刑法案を見て,大きなショックを受けた。ネパールでは,「この最も基本的な人権が危機に瀕していることに疑いの余地はまずない」。
「改宗を規制する改正刑法案の第9部160条は,正当な宗教信仰の表明を幅広く規制できるものであり,これにより宗教団体の慈善活動も自分の信仰表明でさえもできなくなる恐れがある。・・・・
昨年6月,8人のクリスチャンが,子供たちにイエスを描いたコミックを見せたにすぎないのに,子供たちを改宗させようとしたとして罪に問われた。幸い,彼らは2016年12月,無罪判決を受けたが,もしこの法案が成立し法律となり,憲法が改正されないままであれば,同じような事件がこれからも起きるに違いない。
これは,市民的政治的諸権利国際規約18条の規定に違反している。同条は宗教の自由を各人の基本的権利として明確に保障しており,ネパールは自らの1991年条約法によりその施行を義務づけられている。
新憲法制定を急ぐあまり,政府は,宗教を持つこと,宗教を変えること,そしていかなる宗教をも持たないことですら,個人の権利として保障している国際規約に署名したことを忘れてしまったようだ。ネパールは,国際規約に署名しながら,国内法の制定施行においては全く逆のことをする国だ,などといった評判を立てられないよう注意すべきだ。
こうした状況は変えねばならない。ネパールの市民社会諸団体や議員らは,政府に国際的義務を果たさせるため,さらにもっともっと努力すべきである。むろん,これは極めて重要な闘いであり,国内の人々の努力だけに期待するわけにはいかないが。
70以上の国の加盟者を擁する「宗教信仰の自由のための国際議員パネル(IPPFoRB)」は,全世界の政府に対し,ネパール大統領に圧力をかけ刑法典署名を断念させ,また時機を見てネパール憲法26(3)条を改正させるための努力を,なお一層強化するよう要請する。
これらは,もしわれわれが,この美しく荘厳な山の国において宗教信仰の自由への権利が守られることを確実にしようとするなら,避けることのできない行動である。」(*7)
<以上,コメント要旨>
こうしたキリスト教会側からの働きかけに対し,政府や政治家らも,報道は少ないものの,ある程度の対応はしているようだ。キリスト教会代表が提出した布教(改宗)規制規定削除要請に対して,デウバ首相は世俗主義を制度化し少数者の権利を守ると語ったし,ディネシュ・バタライ首相顧問も「直ちに対処し選挙前に解決する」と述べたという(*4)。
また,教会関係行事への政官界有力者の参加も少なくない。7月のビリーバーズ教会ネパール教区主教就任式(2017年7月9日)には「新しい力党」幹部ヒシラ・ヤミ(バブラム・バタライ元首相夫人)が出席し,主賓あいさつの中で,こうのべた。「ネパールは世俗国家だが,キリスト教徒は当然享受すべき宗教の自由をまだ享受していない。・・・・すべての人々は,どの宗教,どの社会共同体に属するにせよ,平等に取り扱われるべきだ。」(8)
この主教就任式には,UMLのMK・ネパール議員(元首相),コングレス党のガガン・タパ議員(元保健大臣),国民覚醒党のロクマニ・ダカル議員など,多数の有力政治家が出席している(*8)。
年末のクリスマス集会にも政官界有力者が多数参加した。たとえば,「ネパール・クリスチャン協会(NCS)」・「ネパール教会連盟(NCFN)」共催のクリスマス集会(カトマンズ,12月3日)には,プラチャンダMC党首が出席し,世俗主義の意義について講演した(*9)。
*4 “Nepal PN ‘commits to adress’ Christian concerns ahead of election,” World Watch Monitor Nepal, 8 Nov 2017
*5 “Bill Criminalises Religious Conversion,” Christian Solidarity Worldwatch, 22 Aug 2017
*6 “Not Secular,” Kathmandu Post, 29 Oct 2017
*7 Lokmani Dhakal & David Anderson, “Religious Freedom in Nepal – Teetering on the Edge of a Precipice,” Ratopati, 2074-06-31
*8 “Two New Bishops Installed in Nepal Dioceses of Believers Church,” Believers Eastern Church, 10 Jul 2017
*9 “Christmas Greeting Exchange Program in Conjunction of NCS and NCFN,” Nepal Church com, 2017-12-19
(4)キリスト教系政党の政界進出
このようにみてくると,ネパールではキリスト教が信者を着実に増やし,地方レベルでは政界へも進出し始めたことがわかる。
中央でも,キリスト教会と政界との関係は日常化し深まりつつあるが,連邦議会に限定すると,キリスト教系政党の進出はまだ見られない。
制憲議会(定数601)では人民覚醒党が1議席(ロクマニ・ダカル)を得ていたが,今回の連邦議会選挙では,定数半減もあってか,下院(定数275),上院(定数59)ともキリスト教会系政党は議席を獲得できなかった。
■「キリスト教世界最速成長国ネパール」(The Gundruk Post, 4 Apr 2018) / ビリーバーズ・イースタン教会HP(4 Apr 2018)
谷川昌幸(C)
キリスト教とネパール政治(4)
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
(1)キリスト教の急拡大[前掲]
(2)布教の法的規制
キリスト教のこの急拡大に対し,ヒンドゥー教多数派や彼らをバックとする政治諸勢力は危機感を募らせ,法令による布教規制ないし改宗禁止に向かわせた。(報道,特にキリスト教系メディアは「改宗禁止」を多用するが,内容的には「布教規制」の方が妥当であろう。)憲法の布教規制規定について,ロルフ・ジージャーズ(Open Doors’ World Watch Research)は,こう述べている。
「ネパールは2008年に世俗国家になり,クリスチャンの自由は大きく拡大した。キリスト教は繁栄し急成長,2008~2017年で3倍になった。これがヒンドゥー急進派を怒らせ,彼らをして宗教の自由の制限への復帰を繰り返し要求させることになった。その最大の成果の一つが,2015年9月の憲法への[改宗を犯罪とする]第26条の組み込みであった。」(*4)
この憲法の改宗禁止(布教規制)規定と米英による改正要求については,すでに紹介したので参照されたい。
・「宗教の自由」とキリスト教:ネパール憲法の改宗勧誘禁止規定について 2017-09-20
・改宗の自由の憲法保障,米大使館が働きかけ 2016-08-12
・改憲勧奨:英国大使のクリスマスプレゼント 2014-12-16
・宗教問題への「不介入」独大使館 2014-12-20
布教(改宗)に関する刑法規定の方は,2007年暫定憲法の下で準備され,2014年10月15日に,それを含む改正刑法案が議会に提出されていた。
その改正刑法案を,デウバ内閣が地方選挙後の8月9日立法議会(制憲議会)において可決,これにバンダリ大統領が10月16日署名し,こうして布教(改宗)を重罰をもって処罰する改正刑法が成立した。
この間,憲法が「2007年暫定憲法」から現行「2015年憲法」に変わったので刑法改正案も修正されているかもしれないが,いまのところ詳細は不明。ただし,2007年暫定憲法成立後,世論が揺り戻し,布教(改宗)に関する規定も2015年憲法の方が厳しくなっているので,改正刑法案が修正されているとすれば,おそらく原案より規制強化されているものと思われる。改正刑法の布教(改宗)規制規定については,以下参照。
・改宗投獄5年のおそれ,改正刑法 2017-09-12
・改宗勧誘,宗教感情棄損を禁止する改正刑法成立 2017-10-31
▼キリスト教迫害指数2018 (Open Doors)
■迫害調査100か国中,北朝鮮が最悪,ネパールは25番目。
*4 “Nepal PM ‘commits to adress’ Christian concerns ahead of election,” World Watch Monitor Nepal, 8 Nov 2017
谷川昌幸(C)
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