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停電14時間の明暗
カトマンズ地区が、1月19日より停電14時間となった。インドが送電を削減したためらしい。
この停電時間は、月でも週でもなく、毎日14時間! 昨年の18時間の大記録にはまだ及ばないが、それでも驚嘆すべき快挙には違いない。
1.停電強靱社会
ネパールは、14時間停電だろうが18時間停電だろうが、平気だ。世界No.1の停電強靱社会といってよいだろう。
しかも、カトマンズはいまや現代的大都市。ケイタイやバスの利便性など、いくつかの点では日本より優れている。数日前,朝日新聞が,印刷紙面と同じものがネット版PDFで読めるようになったと大宣伝したが,こんなもの,ネパールでは数年前から実現しており,しかも無料。朝日のネット後進性に驚きを禁じ得なかった。このように,いくつかの分野では,カトマンズはすでに日本を追い抜いているのだ。
その大都市カトマンズが,14時間/日停電になっても平気。これは驚くべきことだ。後述のように,別の側面はあるにせよ,この停電強靱社会から学ぶべきものは,決して少なくない。
2.不便の便利
ネパールでは,スケジュール通りの停電の以外に,突然の停電や不規則な電力変化もよくある。このような環境では,電化製品も学習し,少々の不規則電流ではびくともしない。
昨秋おじゃました友人の家でも,数日前,過電流が流れたらしく,冷蔵庫,電気ポット,照明などが故障していた。しかし,その故障の仕方が素晴らしい。電気ポットは,ボタンで湯を出す部分は壊れたが,ヒーターは生きていて,湯は沸く。つまり,ボタンを押して湯を出すといった反文化的なことさえしようとしなければ,ポットは十分使えるし,事実,家族は当然のように,そのような使い方をしていた。同じく冷蔵庫も,庫内灯が切れたらしいが,モーターは大丈夫。もともと冷蔵庫内に照明など必要ないのだから,これも平気。
ネパールでは,電圧や周波数の多少の変動など,平気なのだ。日本流の不便は,ここではまったく問題にならない。余計な贅肉取りに役立ち,かえって便利。実に人間的,文化的だ。
3.強靱社会の裏面
しかし,これは停電の明るい側面。表には裏がある。カトマンズが停電強靱社会であるのは,政府が基礎インフラの整備促進を放棄し,インフラの私化(privatization)を放任しているからである。
停電になっても,有産階級や外人観光客は大して困らない。なぜなら,金持ちや観光客向けホテルは自家発電装置や蓄電池を備えているから。たとえ停電になっても,ホテルは煌々と背徳の明かりをともし,エアコンさえ作動している。何の心配も不要。
その反面,そんな余裕のない庶民は,暗黒の夜を過ごすか,せいぜいランプかローソク。電力格差,照明格差は,目もくらむばかりだ。
水も同じこと。金持ちは断水など平気。深井戸を掘り汲み出してもよいし,タンクローリーから水を買ってもよい。水道がでるときは,蛇口満開にして自宅の大きな水槽やプールに,しこたま水をため込む。古来の共同水場が涸れようが,川が溝となろうが,関係ない。一方,貧しい庶民は,どぶ川で水浴や洗濯をせざるをえない。水格差は,電力格差以上に深刻といえよう。
4.ほどほどの難しさ
日本とネパールは,電力と水では過剰と過小の両極端であり,いずれも不健全だ。ときどき停電や断水となり,電気や水道のありがたさを思い起こさせてくれるくらいが、ちょうどよい。
しかし,中庸は,古来,もっとも難しい美徳。まったくもって人間の強欲は度しがたい。
【参照】停電
谷川昌幸(C)
コカナとブンガマティ
1.コカナ
11月22日、カトマンズ南方のコカナ、ブンガマティ方面に散策に出かけた。キルティプールからタクシー(マルチスズキ)でバグマティ川沿いに下り、サイブバンジャング付近で橋を渡り、マガルガオンを経て、コカナ着。約30分。
コカナは古い村で、寺院や民家など趣はあるが、想像以上に新しいものが増え、村全体としては、今ひとつ調和がとれない感じがした。犬も文明化されており、裏道に入っても威嚇されない。
ここは、村中よりも周辺の田園風景がよい。丘の上からバグマティ川を挟んで向かいの山まで、広く一望できる。谷底の水田に点在する家々が、何ともいえない風情を醸し出している。
また、ヒマラヤはランタン、グルカルポリ(?)、ガネッシュの他に、マナスルやアンナプルナも見える。北方の小さなお椀のような丘の上にポツンと木が1本。これがなかなか風情があり、絵になる。ヒマラヤをバックに入れて写真を撮ると、少々、絵になりすぎる嫌いさえある。むろん桜も満開。(以下、写真キャプションの「-K」はコカナ、「-B」はブンガマティ)
2.ブンガマティ
コカナを堪能したあと、歩いてブンガマティに向かった。細い里道で、車やバイクはほとんど通らず、快適。時々、欧米人の集団と出会う。最近は、団体旅行は欧米人、個人旅行は日本人という傾向になってきた。日本はエライ! ついに欧米を追い抜いた。
ブンガマティは、古い建物がほとんど残っており、コカナ以上に趣がある。町中いたる所で籾干し。まるで籾干し大会のようだ。
また、神仏の彫金や木彫、絨毯の手織りなどは、コカナでもやっていたが、ここでもあちこちでやっている。かなりの需要がありそうだが、宿の主人に聞くと、特に絨毯や布の手織り労働はきつく、賃金はわずかだそうだ。
3.裸体女性の自然
驚いたのが、ブンガマティでは、女性が上半身裸で昼寝や籾干しをしていること。コカナでも見たが、ブンガマティの方が多い。さすがに若い女性ではなく、30代以降の女性たちのように見えた。
しかし、これは驚く方が変だ。西欧は寒いから服を着るのであり、南国は暑いから着ない――ただそれだけ。日本でも、農漁村では、1960年代頃までは、女性も平気で上半身裸で夏を過ごしていた。寒くて服を着ざるをえない西欧人が、その僻目から、衣類で身体を隠すことを文明的、道徳的という説をでっち上げ、暖かい国の人々に押しつけたにすぎない。
幕末、日本を旅した西欧人が、日本人は庭先で平気で行水したり、裸で歩き回っているといって、その「未開」「不道徳」を笑いものにしたが、まったくもって余計なお世話! 拘束着を文明的、道徳的と思い込み、不自由な生活をしている西欧人の方が変なのだ。
18,19世紀のコルセットで腰を異様なまでに締め付けた西洋女性と、上半身裸でくつろいでいる東洋女性を比較してみよ。自由で道徳的で高貴なのは、明らかに東洋女性だ。ゴーギャンに聞くまでもない。
4.ネクタイで拘束されるネパール人
そこで嘆かわしいのが、東洋人の自尊心自己放棄。クソ暑いタイなどでも、クーラーをかけ、背広にネクタイ。不道徳の極みだ。
そして、わがネパール。まったくもって理解しがたいのは、私学が流行し始めると、各学校が競って生徒にネクタイを強制したこと。私の交流校の一つも、20年ほど前の創立時から、1年生から最上級生までの男女生徒にネクタイをさせている。
こちらは半袖、ノーネクタイだというのに、まったくもって西洋の猿まね、自尊心放棄であり、不道徳きわまりない。半裸女性の自立自尊に学ぶべきだ。
5.資本主義と英語帝国主義の走狗、私学
私学は、コカナ、ブンガマティ付近にも、驚くほどたくさんある。いずれも豪華な建物で、学費も高そうだ。そして、競って校舎に、SLC優秀者の顔写真付一覧表を掲げている。
大部分の私学が、もちろん洋式正装。おまけに母語使用は厳禁され、一日中、英語で生活させられる。保育園から始める私学もあるから、オーストラリアで厳しく批判された、アボリジニの子供を親から引き離し、白人英語文化で育て、「文明人」にする手法と同じだ。愚劣きわまりない。
こうした金儲け主義私学の生徒は、資本主義と英語帝国主義の奴隷にされた、かわいそうな子供たちだ。彼らには、自由も自律もない。根本的なところで、母語や自文化を軽蔑、放棄させられているからだ。
民族アイデンティティ主義者は、民族別連邦制などとくだらないことをいう前に、率先して自分の子供をこの種の私学に通わせることをやめるべきだ。自分の子供を母語と自文化の中で育てる努力を始めるなら、多少は言行一致、西洋迎合の表向きの主張にもある程度の説得力が得られるであろう。
子供を私学に通わせ、英語文化漬けにし、洋行をねらう「文明人」に比べ、ブンガマティの上半身裸で屈託無く昼寝や籾干しをしている女性たちは、はるかに自然で自由だ。彼女らを見て、ゆめゆめ「未開」だの「野蛮」だの「不道徳」などと、誤解してはならない。不自由で不道徳なのは、拘束着を着ている西洋人や、それ以上に、西洋人の目を持たされてしまった卑屈な日本人自身なのだから。
6.文明化しない犬
ブンガマティは、よい村だが、その分、犬も文明化していない。表通りを外れ、少し裏道に入ろうとすると、犬がうなり声を上げ、よそ者「文明人」を威嚇してくる。犬は、感情に素直であり、自然が命じるままに、自分たちの文化にとって危険な堕落した「文明人」を排除しようとするのだ。
これは恐ろしい。犬は本気だ。こういう場合、かつて西洋人は軍隊を派遣し撃ち殺したが、私は平和主義者、犬の守る彼らの聖域には立ち入らないことにした。
というわけで、犬たちに追い返され、やむなくブンガマティ周辺の立ち入った散策はあきらめ、コカナに引き返した。
7.バイセパティ
コカナからは、バス道をパタンに向けて歩いた。車やバイクが多く、面白い道ではない。パタンまで半分くらいきたところのバイセパティであきらめ、タクシーでキルティプールに戻った。
谷川昌幸(C)
停電体験学習はネパールへ
このところ日本では,電力不足・停電を脅しに,原発再稼働がさかんに唱えられている。4月から関西に転居しているので,若狭の原発再稼働は切実な問題だ。
■ネパール大使館,大阪に退避
第一の論点は,文明生活のために原発リスクを取るかどうか? これは本物の問題だ。減少したとはいえ,交通事故死は年5千人だが,そのリスクを取って日本人は文明の利器,車を運転している。確率から言えば,原発事故の危険性の方がはるかに低い。風力,太陽光などで当面まかないきれないなら,文明生活維持のためには,原発リスクを取るのは当然だ。
しかし,もし電力浪費の文明生活を断念するなら,原発は不要だ。これが第二の論点。そもそも夜を昼のように,夏を冬のようにする文明社会が異常なのだ。夜は暗く,夏は暑いもの。そう観念するなら,原発は廃止すべきだろう。
実際,停電なんて,たいしたことはない。要は慣れ。幾度も論じたように,ネパールでは停電は日常茶飯事。停電になっても,どうということはない。乾期だと8~18時間停電となるが,それでも人々は平然と,ごく普通に生活している。これこそ,健全社会のあるべき姿だ。
修学旅行はネパールに行こう。現地での停電体験学習は,人工飼育された不健康な日本の子供たちが自然を取り戻すための,日本では得がたい貴重な機会となるであろう。
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谷川昌幸(C)
解放としてのインフラ建設
「コンクリートから人へ」と高らかに宣言したものの、政権を取ると、民主党も早々とコンクリートに回帰した。コンクリート、あるいは一般にインフラ建設は文明の具象化であり、その魅力は自然な「人」にはるかに勝る。
というわけで、日本三大秘境のわが丹後にも高速道路がつけられ、間もなく完成すると、自宅から5分で高速に入り、2時間あまりで京都・大阪・神戸まで行くことができる。高校生の頃、バスと汽車で1日がかりで京都に出かけたのがウソのよう。
村も周辺の町も、どことなく活気づいている。大型商業施設や有名電機量販店などが開業し、都会並みの文明生活ができるようになった。
ネットも自在。光通信もよいが、私はデータ通信端末を使用している。ケイタイとほぼ同じ大きさ。村でもどこでも使用でき、料金は光通信より安いくらいだ。日本の秘境で世界の秘境ネパールの新聞を読み、メール交換する。夢のような「素晴らしき新世界」の到来。これもあくなきインフラ建設のおかげだ。
これらインフラ建設は、一言でいえば、「交通」や「交換」の効率化により閉ざされた「秘境」を開くものだ。秘境育ちの私にとって、それらはまさしく光明であり、解放であり、自由であった。コンクリートこそが、文明なのだ。
小学生のころ、遠足は、昔からの交易路の「大内峠」を越え、内海の「阿蘇海」の浜辺で弁当を食べ、日本三景の一つ「天の橋立」まで行くのが恒例。一日がかりの文字通りの「遠足」だった。ところが、高速道路が完成すると、その大内峠の下をぶち抜き、10分もあれば天の橋立まで行けるだろう。自然の制約からの解放。偉大なコンクリート、万歳!
また、先の平成の大合併では、ピカピカの豪華ハコモノがいくつも建設された。使用しようがすまいが、ハコモノは、存在自体が丹後の秘境からの解放の象徴である。ハコモノ、万歳!
谷川昌幸(C)
停電16時間の革命的意義
谷川昌幸(C)
カトマンズは明日からパワーカット16時間,1日の2/3が停電だ。これはスゴイことであり,それに耐えうるネパール社会の「強さ」,「健全さ」は賞賛に値する。
1
日本は,近現代化で贅沢三昧,肥満虚弱社会と化し,このような試練にはとうてい耐えられない。
わが大学では,ほんの数分の停電であっても,半月前に予告し準備するが,それでも文句たらたら。あるいは,水道の断水でも大騒ぎ。先日も,東北地方で,1,2日断水したら,なんと全国ニュースとなり,水道局が平謝りしていた。
電気や水道が数日止まろうが,たいしたことはない。いざとなれば,川の水を薪で煮沸して飲めば済む。ただ,それだけのこと。死にはしない。
この肥満虚弱日本社会では,いまやストライキですらできない。1日や2日,電車やバスが止まろうが,学校が休みになろうが,本来なら,どうということはない。それなのに,ストでもしようものなら,まるで極悪非道の反社会的行為であるかのように世間やマスコミに糾弾される。
こんな不健全な肥満虚弱社会を誰が,何のためにつくったのか? だれが,こんな社会から利益を得ているのか?
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部外者の無責任を承知で言うのだが,ネパールの16時間停電突入で困るのは,外国人や都市富裕層だ。低所得層や地方農民などは,もともと電力依存度が低いので,あまり困らない。都市であっても,バグマティ川岸のスラム住民は平気だ。
いま電力カットにたらたら文句を言っているのは,ネパールの特権階級であり,電力不足解消要求は,彼らの特権回復・維持のためなのだ。
極論すれば,電力不足,化石燃料不足は,近現代化で格差拡大し肥満化の兆しが見え始めたネパール社会を,地方農民・都市下層住民の立場からいったんリセットし平準化するチャンスといってよい。それらがなくなってしまえば,都市も農村も生活条件はほぼ同じになり,格差は解消し,失業者は一人もいなくなる。
3
暴論だと非難されるかもしれないが,これは格差社会日本の現状を鋭く批判し,話題となった赤木智弘「『丸山真男』をひっぱたきたい。31歳フリーター。希望は,戦争」(『論座』2007年1月号)と同趣旨の議論である。
*パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2b)参照。
赤木氏は,バブル崩壊により就職機会を失い挽回の希望すら持てなくなってしまった「負け組」にとっては,格差社会の「平和」の現状を耐え忍ぶよりも,むしろ戦争による根底からの現状否定,社会のリセットの方が望ましい,と主張した。
乱暴な議論であり,政財界はおろか労組や「進歩的」知識人からも激しい非難を浴びたが,しかし,赤木氏の議論は危険ではあるが,決して的外れではない。格差拡大し,それが固定化し,「負け組」には復活の希望すら持てなくなったとき,「負け組」がそうした格差社会の平和的改善ではなく,それを根底から否定(リセット)し,いわば自然状態に戻って,そこからやり直そうと考えるようになるのは,至極当然のことだ。
そもそも,いまの資本主義社会も,市民戦争(革命)により中世封建社会を根底から覆し,既成秩序なき自然状態に戻ってから,改めて創り出された社会に他ならない。
だから,社会で格差が拡大し,それが固定化してきたら,右か左からの「革命=戦争」が唱えられ,社会の下層多数派から支持を集めるようになるのは当然なのである。
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しかし,革命であれ反革命であれ,そして戦争はむろんのこと,あまりにも犠牲が多い。できれば,それは避けたい。
そのためには,自由放任にすれば格差の拡大・固定化に向かう社会を,つねに揺り動かし,平等化する努力をすることが絶対に必要となる。
人は,裸の状態(自然状態)ではみな自由・平等であり,これが正義であることは自明の理だ。
ところが,皮肉なことに,平等な人が自由を行使すれば競争となり,格差が生じる。この格差は,平等の理念からすれば,悪だ。しかも,それが固定化すれば,自由の自己否定にすらなってしまう。
だから,人間社会はつねに平等と自由の理念により批判され,格差が固定化しないように修正され続けなければならないのだ。
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この観点から見ると,日本は肥満虚弱化が進行し,もはや揺り動かすことすら難しい危篤状態に陥りつつある。労組や「進歩的」知識人ですら赤木論文の問題提起を理解できず,既存格差社会の擁護に回ってしまった。
これに対し,ネパールはまだ健全といえる。ストもバンダも,停電も断水も,日常茶飯事だ。
無スト社会は,スト社会より不健全だ。
無停電社会は,停電社会より不健全だ。
たしかに,バンダも停電も困りはする。しかし,困るのは自分が特権的生活をしているからであり,バンダや停電はその悪しき生活を反省させてくれる必要不可欠の機会なのだ。
24時間365日停電となれば,ネパールの人々は都市も農村もなくほぼ平等になる--逆説的ではあるが。
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